「証」前編に続く、後編です。
大学三年生の頃、特に何かがあったわけではないのに、私は精神的にとても辛い日々を過ごしていました。
自分に対してだけでなく、世の中に対しても、全てに於いて全く希望を見い出せなくなっていました。
何をしても虚しくて、生きる意味がどうしても分からなかった。
無気力で体が重く、日常生活の動作さえ、ひどく骨の折れることのように思われました。
まるで、毎日が暗闇に閉じ込められたように苦しかった。
その頃、よく「消えたい」と思っていました。
死にたいというよりも、消えたかった。
家族を悲しませたくはなかったから。
ボタンのようなものがあって、それを押したら私の存在が、ふっと消えてしまうような、人々の記憶からも抹消されて、私という存在が完全にこの世から消失してまえばいいのにと思っていました。
けれど、本当にそんなボタンが目の前に現れたら、私は怖くなって、きっと押せないのだろうとも思っていました。
スクールカウンセラーのところへ行くと、すぐに心療内科を紹介されました。
どちらへも通っていたけれど、私は頑張れなかったのが辛かったのだと思います。
よく体が重くなって動けなくなり、寝込んでいました。
「頑張りなさい」などと言う人は誰もいないのに、自分で自分を鞭打ち、頑張れない自分が許せなかった。
恵まれた環境で生きているのに、何を甘えたことを、贅沢なことを言っているのだと、自分を責めていた。
突然泣き出してしまうこともあり、私は自分の内にいつも、溢れんばかりにいっぱいになってしまった心の涙のコップを抱えているようでした。
どんなにたくさんの心理学や哲学や人生に関する本を読んでも、また良いとされることに取り組んでも、一向に暗闇から抜け出せませんでした。
そんな時、一冊の本と出会いました。
それは、三浦綾子さんの「塩狩峠」でした。
家に置いてあった、おそらく母が買ったのであろう古い文庫本を読んでいくうちに、私はようやくここにだけ、かすかな希望の光を感じとることができました。
そして、それが何かも分からないのに、「私が求めているものがここに在る」と感じました。
ご存知の方も多いと思いますが、小説「塩狩峠」は実在の人物をモデルに書かれています。
主人公の男性はクリスチャンで、列車の事故を防ぐために自分の命を差し出し、多くの命を救った人物です。
なぜそこに自分が希望を感じたのか、そんなことまではその当時考えなかったし、今でもまだよく理解できていないけれど、きっと私の思う愛というものが、その男性の生き方に在るのだと思います。
キリスト教の愛とは、自分自身を与えることだからです。
それから私は、再び教会へ通うようになりました。
子どもの頃、少しの間だけでも教会学校へ通っていたから、それは私にとって自然な行動でした。
母をよく知る教会員の方々が、母のことを教えてくださるのがうれしかった。
母が亡くなった頃、まだ子どもだった私では母の話し相手にはなれなかったから、私の知らない母がそこにはたくさんいました。
それから受洗に至るまでの経緯は、なぜかあまり覚えていません
毎週教会へ通い、神様のメッセージを聞くことが、私にとってはとても自然で必要な行いだったから、洗礼を受けるということを当然のことのように決めたような気がします。
今、一つ気づいたことがあるとすれば、キリストの愛が、私の深い飢え渇きを潤してくれた唯一のものだったということです。
私は愛情に恵まれた環境で育ち、人からの愛に飢えたことがありません。
家族からも親戚からも、ご近所の方々や友人からも、いつも不思議な程に良くしてもらってきました。
それでも、私の深いところにある渇きが満たされることはなかったのです。
その渇きとは、霊的な渇きです。
霊性とは、何か特別な不思議なものではなく、誰もに在る、多くの人が普段は意識をしていないものだと思います。
人の愛とはまた別の次元にある、神様の愛だけが、私の一番深いところにある霊的な渇きを満たしてくれたのです。
生きる意味を問うとは、誰もが通る道だと思いますが、私はその時に初めて自分の霊性と真剣に向き合ったのかもしれません。
なぜ私は大学生の頃に、「何の為に生きるのか」という普遍の問いの答えを見つけなければ生きていけないほど、苦しくて苦しくて仕方がなかったのかというと、もう自分をごまかすことができなくなったからだと感じました。
そして、私が見つけた"希望の光"とは、私の"生きる意味"と同義なのだと、今気づきました。
けれど、受洗からもうすぐ10年が経ちますが、その間こんなにも大切なことを忘れていた時期もたくさんありました。
そして、それを体現して生きていけているのかというと、まだまだできていません。
なぜならそれは、私の一生をかけて行っていくものだから。
人生をかけて表現していくものだからです。
一つ一つが大切なステップであり、今こうしていつの間にか文章で自分の思いを表現するようになったことも、きっと何かにつながっていくのだろうと思います。
洗礼を受けてからも、変わらず辛い時も喜びの時もどちらもあります。
けれど一つだけ変わったことは、私はそれ以来、希望を見失うことがなくなったということです。
私がどんな状態であったとしても、どんな環境に居たしても、見上げれば、いつもそこに在る希望の光を感じることができるようになりました。
だから、あの頃は辛かったけど
「よく頑張ったね」
「ごまかさずに、自分で自分の歩んでいく道をちゃんと見つけたんだね」
って、過去の私を抱きしめてあげたいなと思いました。
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
Ⅰ コリント 13:13