先週、91歳の叔母の告別式に出席しました。
80代後半でお腹から太腿にかけて大やけどをした時、皮膚の移植術から驚異的な速さで回復。
そして今年の初めに骨折をし、その時も手術に耐え、術後の回復も早かったスーパー婆さんです。
3年程前に私の母が亡くなった為、時には喧嘩をしながらも毎日お茶を飲んでいた義妹を失い、近所のお友達も、次々と櫛の歯が欠ける様にいなくなる中、昨年の夏頃から何となく生きる気力を無くされていた様でした。※因みに我家の隣に住んでいました。
それでも、肺炎を克服し、退院の話が出た矢先の事。
本家の嫁として約70年。
10人兄妹の大家族のお嫁さんでしたので、その大変さは計り知れません。
お盆やお正月に集まる親戚はかなりの人数です。
仕事を持っていた叔母は、私の母の手を借りながら、おもてなし料理の支度をしていました。
田舎出身の人でしたので、お正月にはお餅をつき親戚に配ったり、お祝い事があるとお赤飯を配り、時にはうどんを打ったり、肉饅やお饅頭を作っては、私もお呼ばれに預かったものです。
しかも、何年に誰が結婚したとか、親戚の行事を良く覚えている。
達筆な字を書き、俳句を読む・・・明治の女性は凄いと言いますが、いやいや、大正生まれの女性も凄いです。
休む事なく、お姑さんやお舅さんご家族の世話をし、私達親戚一人一人に洩れなく目を配ってくれた叔母。
こんなに忙しくて、幸せだったのかな?
従兄も同じ様に感じていたらしく、挨拶の冒頭で「母はこの家に嫁いで幸せだったのか」と思う事があったと言っていました。
しかし、振舞った料理を頬張る客人を見る叔母の顔を見て、その思いは消えていったそうです。
人の幸・不幸は第三者には分りません。
傍目には幸せに映っても、それを幸せと感じない人もいれば、
誰がどう見ても大変そうなのに、その人にとっては幸せと感じる人もいます。
幸せかどうかは、その人が決めるもの。
つまり、「幸せ」って人から与えられるものでは無いんですよね。
私達は色々な場面で、幸せにして貰う事を考えてしまいます。
この人(仲間)は幸せにしてくれるかな?
この仕事なら幸せになれるかな?
「幸せ」って自動的に与えられるものと思ってしまうから、不満が出てしまう。
多分、人は何処にいても、誰といても幸せになれるんだと思います。
自分が、そこにいる事に幸せだと感じられれば。