はい、この夏に発作を起こし、倒れました。


16年目にして、お初です。


検査の結果、10月から癲癇の薬が処方されました。


ラミクタールを一か月半飲みましたが合わず、昨日からイーケプラ500mg×2/日に変更。


今度は眠気じゃなく、不安感が強い様子。


今朝は大暴れして、パニックの後、全身脱力で手足に力が入らず、意識混濁で自力で立てませんでした。


およそ30分経過し、ピーク時に病院のERに電話するも、日中の外来へとのこと。


てんかんの発作なのか、はたまた薬の副作用によるものか…わからん。


なのに11時までに外来へ来いという。


こういう時、ヘルパーだったことが役に立ちますわ。


頑張って落ち着かせた後、背後から腋下に手を入れ手起こし、座位から立たせて担いでベッドへ移動。


しばし様子見。


血圧、脈拍、呼吸共に正常。


そのまま寝かせる事二時間。


自分で起きて着てトイレタイム。


声掛けして会話も正常。


9時半過ぎてて、もう病院には間に合いません。


何故って!?


university hospital townだもんで、自家用車でも片道30分以上かかるんです。


路線バスは一時間に一本。


片道一時間タップリかけて行きます。


ねっ、無理でしょ!?


明日の午前中、様子見て連れて行きます。


やっぱり、大きな病院は不親切だわ。


生まれて二週間目に、全結腸型無神経節症候群(ヒルシュスプルング病)と診断され、小学一年生の夏休みにWISCⅢを受け、中度に近い軽度知的障害の認定を受ける。


そしてこの夏、癲癇を発症し、診断が下された。


腸管と脳神経って関係あるらしいって、最近知ったんだわ。


でもって、癲癇になる確率も70%もあったんだって。


まあね、脳障害があるから知的障害になるんだし、言語視野が弱いんだよね。


部分癲癇っていうらしいんだけど、もうなっちゃったもんはしょうがない。


気長に向き合って行きますかね。



息子の病気は、先天性の物で全結腸型無神経節症(ヒルシュスプルング病)という。


二歳になる前に根治術(大腸の全摘出)を受けた。


その後、何度も腸炎を起こして入退院を繰り返し、小学校入学前までその状態が続いた。


息子の発達障害は、一歳を過ぎた頃から徐々に気になりだし、幼稚園の年少になるとハッキリとその違いが現れるようになった。


それから、療育病院を探して予約するが、結果が出るまで2年の月日がかかる。


気がつけば幼稚園の年長になっていて、STの訓練を受けられる期間は約8ヶ月と短く、中途半端な結果で終わる。


それでも平仮名カタカナの読み書きと数字を十以上数えられ、色の違いも認知しており、就学前相談で通常学級への進学が決まる。


だが、通常学級での学習について行けないし、保護者の心ない言葉に打ちのめされる。


発達障害、病弱児は特学へ行けと、存在そのものが迷惑だという。


家の息子は純粋な精神遅滞だけ。


奇声を上げるわけでも、授業妨害するわけでもなく、わからないから黙って座って聞いている。


あと、人の答えている姿をみて覚える。


だから普通学級なんだが、3年に進級時に校長の定年退職により、特学への方針が変わってイキナリ特学入りとなった。


此処から息子の成長は後退し、合わせてサポートブックの内容も無視(見ていない)の担任のせいで、顔面蒼白の事件や問題が続発。


イレウスになるのが一番怖いため、下痢となるモノへの対処が必要。


なのに無視してトウモロコシ丸ごと齧らせるわ、牛乳が飲めない息子にそのまま飲ませるわ、生水厳禁なのに水道の水飲ませるわ、食後のトイレをさせずに強引に移動させるわ…マジでその無謀な教員の対応にキレた。


嘔吐と下痢のたびに冷や汗もの。


そんな苦労を知りもせずに、ド素人の教員に支援クラスの担任をさせる校長。


改善要求の為に苦情を言えば、モンスターペアレント扱いされる。




現在は高1になり、この春から特別支援学校に通っている。


ソレで過去を振り返り、今一度おさらいしてみた。


ヒルシュスプルング病の原因はいまだに不明。


但し、様々な合併症についてはわかってきているようで、多・合指症や心臓病、口陰・口蓋裂、ダウン症などがあり、染色体異常があると言われている。


勿論、息子の知的障害も合併症の一つになる。


そして私は多・合指症だったし、これも遺伝的要因があるもの。


当然、私の兄弟姉妹にも何らかの障害や病気の因子があれば、これはもう親からの遺伝としか言えないわけで。


そう、ネグレクトの母は目に見える病気、または訴えが無い限り子どもについてはスルーが基本。


私は生まれついての病弱と多・合指症だったため、他人の目に留まった事が幸いし、治療を受ける事が出来たが…訴えられなかった姉たちは、そのまま大人になった。


一見すると五体満足に見える長女も発達障害があるし、次女は生まれつき片目が見えていない。


就学年齢になって、眼科検診を受けて初めて【見えていない事実】を知る。


それでも訴える事の出来なかった次女は、大人になって残った片目もあまり見えていない。


でも、眼鏡では不自由でコンタクトレンズの使用を私が薦めて、彼女は片目だけの使用で生活している。


三女については、小学校高学年まで夜尿症があり、これも病院へは行っていない。


我が家の問題児は母であるが本人にその自覚はなく、高齢となった今でも問題だらけだ。


そんな私が子どもを産めば、当然、何らかの問題があるのだろうとなんとなく思ってはいたが、現実問題としてこんな難病になるとは思ってもみなかった。


因みに私のベーチェット病の疑いだって膠原病の一種だが、私にそれがあるとわかったのは5~6年前の話だ。


私も息子も敗血症になると命取りなのだという。


普通の人よりも何倍も危険度が高いという訳。


私の慢性疼痛障害もサイトカイン(身体の中の細胞が炎症を誘発する物質)が原因で、全身至る所が痛む。


もとより免疫系の疾患があるので、脊柱靭帯骨化症などと言う合併症もあるので、さらに日常生活が困難。


息子は今は元気に日々を送っているが、今もイレウスや感染症には注意を払っている。



息子も後残り二週間ほどで中学を卒業します。


進学先は特別支援学校の普通科ですが、本当、本音を言えば私に余裕があればサポート校へ行かせたかった。


でも、身体の痛み、痺れが進行中で、特に右腕のけいれん(こむら返り)が頻繁に起こっています。


付け加えて両足のこむら返りで毎晩のたうってます。


とりあえず自宅で出来るストレッチは欠かさず、体力維持に努めていますが…心無い他者の言葉に傷つけられるというか、悔しさを噛みしめつつ、何とか日々を送っています。


働ける体、仕事がしたいと思いつつ、身体がその気持ちについて行きません。


余裕の無い私は、息子以外の責任は負えませんし、現状を維持して行かなくてはならず、焦る気持ちとの闘いですが、情なくも鉄母になりそこないました。


で、このごろ思う事は…何故、私のところへ息子は産まれてきたのだろうか!?と。


我が家の息子を育てるのは人の三倍は手がかかります。


ですが、それと同じだけ旦那にも非常識な実母や姉にも振り回され、もう本当に当時は人生を呪ったモノです。


いや~、マジで出産で死にかけるとは思っていなかったので、まだ三十代だった私は必死で身体を回復させようと思うのですが、休む暇などありませんし、認知症の初期にあった母の元では子どもの看病もままならず、仕方なく帰京しましたが、そこで旦那の協力が得られるわけもなく、ひたすら孤軍奮闘の日々。


まああ、ほぼアスぺ確定?の旦那には、この現状の大変さなど一つも理解されず、家事もまともにこなせないほど子どもに付き添わなければならない毎日。


夜はほぼ毎晩夜泣き。


その度にキレて暴れる旦那に、私の気力は…体力は奪われ、何度自殺しようかと追い詰められながら、ナントカ息子は小学校へ入学。


その頃には病状は安定し、息子はそれまでの遅れを取り戻すかのようにすくすく成長を始めた。


その一方でやはり発達障害について、もう無視できなくなっていたし、旦那及び身内の支援は無くて、息子の将来を考えつつ、病院をハシゴしてようやく知的障害という診断が降り、小1の秋には療育手帳の申請に踏み切った。


だが、どこも適切な支援は受けられず、疲弊して行く肉体と並行して精神力も減退し、睡眠障害から長引く不定愁訴に加えて、とうとう私は大怪我をしてしまう。


そこから始まった私の闘病生活。


体力自慢で元気が取柄だった私の、見る影もない己の姿に、自分でもどうする事も出来ない。


そんな中、やっぱりアスぺ傾向強い旦那は、この現状を理解できず、また父親としてなすべきことも出来ず、私が安心して治療できる環境を提供できない。


あとで知ったのだが、ボランティアに登録しておけば、学童保育の送り迎えにその後の保護も有料で頼めた。


相談すべきところへ相談もせず、ただ息子に虐待を続ける無責任夫にキレた。


入院中、絶対安静を言い渡され、外出もできないというのに…バカ夫は息子を病院に置き去りにして、女のところへ行く。


腹が立って、無理やり外泊許可をとって一時帰宅し、旦那をぶん殴って、入院に必要な小物をひとまとめにして、翌朝の朝食までに戻った。


この時に離婚を決意する。


それからさらに一月半入院し、ようやく退院にこぎつけるも、現状を理解していない学校の支援級の担任のセリフにまたキレた。


嗚呼、コイツもアスぺか…と、三度項垂れる。


ウチの旦那にも腹が立つが、学校側の対応にも腹が立ち、退院後も続くリハビリと療養生活。


完治したわけではなく、子どものために無理やり退院したわけで。


この一件が後々私を苦しめることになった。


そう、この時のケガの後遺症から、次々と隠れていた病が表に出てくる。


40代に突入していたこともアリ、一気にそれまでの疲労感と無理がたたって、とうとう難病になるが…


実家の婆も身内も誰も協力はナシ。


障害児ってそんなに世間じゃ迷惑な存在なんですかね。


ハッキリ言って、我が家の母も姉も壊れてます。


ネグレクトだった婆に、家庭崩壊させた長女、統失の次女、そして人格障害の三女と生まれつき病弱児だった私。


しかも私が病弱に生まれついた原因は母。


妊娠中、何度も流産させようと無茶苦茶した挙句、早産で仮死状態で生まれたそうだ。


生きてこの世に誕生したことが奇跡だった。


おそらく父が居なければ私は死んでいた…つか、誕生しなかっただろう。


生まれてからも私にとって父の存在だけが頼りだったのに…高2の時に亡くなった。


それから頼る者もなく、ずっと一人。


今は息子の存在が私の支えだ。


この子を育てることが私の生きる意味となっている。


というわけで、大怪我から7年目、大病が見つかって4年が経つ。


今はただ生きる力が欲しい。





右上腕骨粉砕骨折から7年目の年の背が来た。


あの日、不運な転倒事故から生まれて初めての骨折を経験したが、当時の私は慢性的な原因不明の不定愁訴で悩んでいた。


事の始まりはおそらく出産時の時のトラブルだろう。


破水から始まって24時間たっても陣痛が無く、陣痛促進剤投与の必要がったのだが…何故か婆がガンとして拒み続け同意書にサインせず、結局は東京から海外出張中の一時帰国だった旦那を呼びつけて行い、当初の予定量を越えて点滴一本分を摂取してしまうが、実は私のベッドのナースコールが故障しており、看護婦が来なくて…ミスってしまう。


直後、夕食を出されて食べていると陣痛が来た。


まあそれからの痛みつったら…言葉で表現できませんよ。


陣痛室に引き籠り一昼夜、嘔吐と激痛の合間に水分補給、時折トイレ。


食事なんて全く取れませんし、食べても直後に吐くんで意味なし。


入院して三日目の夜、子宮口約6cmほど開いていたが、破水しているので感染症の心配もあるし、お盆休暇でオペ室スッタフが揃わなくなるのを理由に帝王切開に。


お盆休暇が無ければ、おそらく1週間くらいは耐えられると言われたが、冗談ではない。


婆の私への悪態とか、ウチの旦那への媚びが鬱陶しくて、旦那自身も気持ち悪いと言って病院近くのビジネスホテルに逗留。


この状況下で長期間の入院は辛い。


とっとと出産して実家ではなく、自宅のある埼玉へ帰りたい。


というわけで帝王切開となったわけだが、細かい話は割愛にするとして、出血が予想以上に多くて要輸血だったわけだが、生まれた新生児にトラブルがあって、近隣のNICUのある病院へ子どもだけ転院してしまい、母乳の必要性から輸血はギリまで見送る事に鳴り、通常に二倍の量の造血剤を投与された。


すでに三日三晩陣痛で体力消耗していたので、この選択は非常にきつかった。


真夏の病院で掛布団二枚と毛布に湯たんぽ、でも極度の貧血で極寒地獄。


意識も朦朧とする中、病室の暗闇の中で延々と悪態を吐き続ける婆。


あまりにひどいので、同室の患者さんの苦情により、婆は出入り禁止となりました。


翌朝、声も出せずに自力で起き上がる事も出来なくて、ベッドのリクライニング機能を使って座位から始め、夜にはベッド脇に置かれたポータプルに移動できるまでになるが、相も変わらず極度の貧血状態。


幼馴染みの協力を得て、洗濯物やら必要なモノを揃えてもらった。


二日目、ポータプルトイレを取り上げられ、数メートル先のトイレまで激痛に耐えつつ10~20分かけて何度も行く。


コレを繰り返して三日目、ナースステーションの先にある公衆電話まで30分以上かけて歩く。


こうして五日目には痛みにこらえつつも貧血からは脱し、談話室で見舞いにやってきた友人と面会できるまで回復する。


本来、二週間は安静が必要と言われたが、NICUに入っている息子のことが気にかかるので、手術から一週間目に退院させてもらった。


それから毎日、搾乳した母乳を届けるため、息子の入院する病院へ通う。


1ヶ月後、体力も回復していなかったが、息子の付き添いの為に病院へ泊りこむ事3ヶ月。


睡眠不足に体力不足から体重はマイナス20kgとなり、元の体重に戻るが…婆は勿論だが身内の見舞いはナシ。


仕方なくいったん退院して都内の病院へ転院する。


以降、小学校入学まで続く闘病生活は過酷で、私の体力と精神力は極限を越え、産後から続く体調不良も改善されないまま、24時間続く介護生活に睡眠障害になり、軽度の鬱状態になる。


やがて、原因不明の不定愁訴ということで、いくら病院をハシゴしても原因はつかめず、7年前の11月に不慮の事故で右上腕骨の骨折。


此処からは、過酷なリハビリに耐えつつ、橈骨神経麻痺で指一本動かせなくなった右腕を治療。


1年後、10年続いた結婚生活に別れを告げ、息子と二人で今に至る。


右腕はリハビリに耐えたおかげで動かせるようになったが、慢性疼痛という後遺症が残る。


それから2年後、体調を崩して帯状疱疹になり、リウマチ膠原病内科を受診、ベーチェット病の疑いと診断される。


また半年ほど経った頃、頸椎、胸椎、腰椎の痛みを訴えてMRIの結果、脊柱靭帯骨化症と診断される。


一年後、歩行困難となりそれまで通っていたペインクリニックを止め、在宅によるリハビリに変える。


半年後、杖なしの歩行が可能になり、以降は現在の病院で投薬医療のみである。


なんとか今年一年も生き延びることができた。


自分に負荷をかけずに日々過ごすことで一杯一杯だ。


トラムセットにリリカ、デパスにメチコバールはかかせない薬漬けの毎日だが、それでも私は生きていかなければならない。


痛みや痺れによる苦痛は、誰にも理解されないからな。




昔、私が幼稚園ぐらいの頃って、秘密のアッコちゃんにりかちゃん人形が大流行で、とりあえずりかりゃんは買えてもドールハウスは高くて買ってもらえず、当時小学生だった姉たちが、余った布を使って着せ替えをつくったり、段ボール箱を工作してドールハウスもどきをつくったモノですが、今ではそういったことも思い出ですよ。


で、最近流行りの妖怪ウォッチなる物は、並んでも買えないとか。


でも、そこはママたちの知恵で百均で買える品物を使って、なんと手作りするのが流行っているようです。


さすがというか…凄いわ(笑)


そう言えば、最近の子どもたちって親が作って与えるんですよね。


自分で工夫して作ったりって、そういう楽しみ方しないのでしょうか!?


今の方が物が豊富に簡単に手に入るのに、不思議ですね。


あと、男の子たちって結構父親や祖父と、玩具も遊びながら作ってましたよ。


自転車も分解して怒られたり…よくある話でした。


今の子はお行儀が良いのか、あまりしませんね。


小学校の低学年ぐらいだと、親が道具を準備して見守りつつ、自分で作らせてみては…と思うのですが。


でも、物を作るって幾つになっても楽しいですよね。