右上腕骨粉砕骨折から7年目の年の背が来た。
あの日、不運な転倒事故から生まれて初めての骨折を経験したが、当時の私は慢性的な原因不明の不定愁訴で悩んでいた。
事の始まりはおそらく出産時の時のトラブルだろう。
破水から始まって24時間たっても陣痛が無く、陣痛促進剤投与の必要がったのだが…何故か婆がガンとして拒み続け同意書にサインせず、結局は東京から海外出張中の一時帰国だった旦那を呼びつけて行い、当初の予定量を越えて点滴一本分を摂取してしまうが、実は私のベッドのナースコールが故障しており、看護婦が来なくて…ミスってしまう。
直後、夕食を出されて食べていると陣痛が来た。
まあそれからの痛みつったら…言葉で表現できませんよ。
陣痛室に引き籠り一昼夜、嘔吐と激痛の合間に水分補給、時折トイレ。
食事なんて全く取れませんし、食べても直後に吐くんで意味なし。
入院して三日目の夜、子宮口約6cmほど開いていたが、破水しているので感染症の心配もあるし、お盆休暇でオペ室スッタフが揃わなくなるのを理由に帝王切開に。
お盆休暇が無ければ、おそらく1週間くらいは耐えられると言われたが、冗談ではない。
婆の私への悪態とか、ウチの旦那への媚びが鬱陶しくて、旦那自身も気持ち悪いと言って病院近くのビジネスホテルに逗留。
この状況下で長期間の入院は辛い。
とっとと出産して実家ではなく、自宅のある埼玉へ帰りたい。
というわけで帝王切開となったわけだが、細かい話は割愛にするとして、出血が予想以上に多くて要輸血だったわけだが、生まれた新生児にトラブルがあって、近隣のNICUのある病院へ子どもだけ転院してしまい、母乳の必要性から輸血はギリまで見送る事に鳴り、通常に二倍の量の造血剤を投与された。
すでに三日三晩陣痛で体力消耗していたので、この選択は非常にきつかった。
真夏の病院で掛布団二枚と毛布に湯たんぽ、でも極度の貧血で極寒地獄。
意識も朦朧とする中、病室の暗闇の中で延々と悪態を吐き続ける婆。
あまりにひどいので、同室の患者さんの苦情により、婆は出入り禁止となりました。
翌朝、声も出せずに自力で起き上がる事も出来なくて、ベッドのリクライニング機能を使って座位から始め、夜にはベッド脇に置かれたポータプルに移動できるまでになるが、相も変わらず極度の貧血状態。
幼馴染みの協力を得て、洗濯物やら必要なモノを揃えてもらった。
二日目、ポータプルトイレを取り上げられ、数メートル先のトイレまで激痛に耐えつつ10~20分かけて何度も行く。
コレを繰り返して三日目、ナースステーションの先にある公衆電話まで30分以上かけて歩く。
こうして五日目には痛みにこらえつつも貧血からは脱し、談話室で見舞いにやってきた友人と面会できるまで回復する。
本来、二週間は安静が必要と言われたが、NICUに入っている息子のことが気にかかるので、手術から一週間目に退院させてもらった。
それから毎日、搾乳した母乳を届けるため、息子の入院する病院へ通う。
1ヶ月後、体力も回復していなかったが、息子の付き添いの為に病院へ泊りこむ事3ヶ月。
睡眠不足に体力不足から体重はマイナス20kgとなり、元の体重に戻るが…婆は勿論だが身内の見舞いはナシ。
仕方なくいったん退院して都内の病院へ転院する。
以降、小学校入学まで続く闘病生活は過酷で、私の体力と精神力は極限を越え、産後から続く体調不良も改善されないまま、24時間続く介護生活に睡眠障害になり、軽度の鬱状態になる。
やがて、原因不明の不定愁訴ということで、いくら病院をハシゴしても原因はつかめず、7年前の11月に不慮の事故で右上腕骨の骨折。
此処からは、過酷なリハビリに耐えつつ、橈骨神経麻痺で指一本動かせなくなった右腕を治療。
1年後、10年続いた結婚生活に別れを告げ、息子と二人で今に至る。
右腕はリハビリに耐えたおかげで動かせるようになったが、慢性疼痛という後遺症が残る。
それから2年後、体調を崩して帯状疱疹になり、リウマチ膠原病内科を受診、ベーチェット病の疑いと診断される。
また半年ほど経った頃、頸椎、胸椎、腰椎の痛みを訴えてMRIの結果、脊柱靭帯骨化症と診断される。
一年後、歩行困難となりそれまで通っていたペインクリニックを止め、在宅によるリハビリに変える。
半年後、杖なしの歩行が可能になり、以降は現在の病院で投薬医療のみである。
なんとか今年一年も生き延びることができた。
自分に負荷をかけずに日々過ごすことで一杯一杯だ。
トラムセットにリリカ、デパスにメチコバールはかかせない薬漬けの毎日だが、それでも私は生きていかなければならない。
痛みや痺れによる苦痛は、誰にも理解されないからな。