平城宮 宮跡 東院庭園。2021年2月28日(日)

平城京、宮跡東院庭園に何故築山が無いのか?その謎に迫ってみました。

 

東院庭園 平城宮資料館より

https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/guide.html

庭園内の建物跡

 

東院庭園では池の北東方や中央に主要な建物を配しています。左に見える建物が中央建物、右奥に建つ建物が北東建物です。このほか、庭の南東隅でも特殊な建物跡がみつかっています。ごく最近の発掘調査で、逆L字形の特殊な平面配置をもち、頑丈な地盤固めをしていたことがあきらかになりました。正八角形(経約32cm)の柱も4本出土しています。しかし、建物の上部構造や意匠、庭園内で果たした役割などについては不明なところが多く、庭園空間全体との関係をふまえ、今後詳しく検討していく必要があります。

 

復元整備の基本方針

 

平城宮跡全体の整備は『特別史跡平城宮跡保存整備基本構想』(1978年、文化庁)に基づいて行われています。平城宮跡に設定されている4ヶ所の立体復原地区の一つが東院庭園であり、平城宮内で営まれた宴遊空間を再現することをめざしています。復原に際しての基本的な方針は以下の通りです。

 

1奈良時代後半の庭園の姿及び建物を復原整備する。

2遺構は保護のために土で覆い、その上に池、建物、橋、塀などを原寸大で復原するが、石組や景石の一部は、実物を露出展示する。

3出土した植物遺体などの発掘成果や文献資料をもとに、植裁樹種を選定し、古代庭園にふさわしい景観を復原する。

庭園地形の復元整備

 

中央建物と平橋

中央建物は池の西岸中央にある東院庭園の「正殿」で、宴会や儀式の際に中心となった場所と推定しています。池に張り出す露台がつき、ここから東岸と平橋で繋いでいます。平橋は桁行4間×梁間1間の堀立柱建の東西橋です。柱は中央建物縁束の出土柱根を異本として、八角形断面(経約24cm)と復原しました。また平橋、反橋ともに、擬宝珠は1966年に平城宮東南隅で出土した瓦製擬宝珠にならっています。

 

庭園地形の整備では地下に残っている遺構をきずつけないように、土盛による保護を原則としておこなっています。遺構の真上に復原建物や築地塀を建設する場合、40cmほど盛土して整備地盤面としました。一方池の部分では、地形そのものが遺跡であることから、景石や洲浜石敷の遺構そのものを見ていただきたいのですが、洲浜の遺構は大変壊れやすく露出に耐えないため、砂と不織布で覆って保護した上に遺構と類似した小石(経5~10cm程度)を厚さ10cm程度に敷き詰め、奈良時代の洲浜を再現しました。盛土の厚さによって生じる地盤高の差については、庭園の各所でなめらかに繋いで処理しています。露出している景石の表面は合成樹脂で強化し、割れていたものは接着して修復しました。景石が失われたと考えられる位置には、裏に補充年度を墨書きした石を新たに据えて、奈良時代のものと区別するようにしました。

 

池の水

 

反橋

桁行5間×梁間1間の堀立柱建、南北橋です。平橋とほぼ同じ桁行総長ですが、平橋が4分割したのに対して5分割とし、柱間隔をせまくしています。さらに柱間隔は、中央3間の方が両端2間より広いことから、橋の曲折にあわせて柱を立てたと考え、反橋として復原しました。

 

池を持つ庭園に於いては水の扱いが重要となります。奈良時代後期の東院庭園では庭園北方の西から東へ流れる石組水路とこれを受ける石組護岸の小池が給水施設の中心で、このほか池北東部のわき水部分には曲げ物を据えて水源を確保していました。また、池を乾すために水を抜く際は、南面大垣の下をくぐらせた暗渠を使いました。整備では石組み水路と小池を復原して池の給水を行うとともに、水の淀みをなくすために池の西部を中心に池底の9ヶ所に給水管を増設してあります。池の水量は約350立方メートル、給水には井戸水を使い、「宇奈多理の杜」の北西方に設けた管理施設で最高1日3回の割合で循環浄化し、正常な水質を保つ工夫をしています。

 

植栽の復元

 

東院南門

桁行5間×梁間2間の礎石建、東西棟建物です。東院の正門で、中軸線の北延長上には東院玉殿があると推測しています。構造と部材寸法などは法隆寺東大門にならい、単層切妻造の五間三戸門にしました。

 

 植裁は庭園の景観を形づくる重要な要素です。発掘調査によって池の堆積土から採取した植物遺体(枝葉、種子、花粉など)を分析した結果、奈良時代後半の東院庭園には主にアカマツ、ヒノキ、ウメ、モモ、センダン、アラカシ、ヤナギ、サクラ、ツバキ、ツツジなどの樹木が植えられていたと推定しています。この成果を中心に、『万葉集』や『懐風藻』などにみられる庭園植裁の記録も参考にして樹種を選びました。植裁の位置は、樹木の植え穴、もしくは抜き取り穴の可能性がある浅い窪みや、大きな枝がまとまって出土した位置などを参考にして復原しました。また樹の大きさや形は、平安時代の『年中行事絵巻』などの絵画資料を参照し、全体の景観に配慮して決めました。

東院庭園 平城宮資料館より

 

 

平城宮左京三条二坊宮跡庭園、

 

平城京左京三条二坊宮跡庭園

 「宮跡庭園」(みやあとていえん)

宮跡庭園は、昭和50(1975)年の発掘調査で発見された奈良時代の園池を中心とする庭園遺跡です。平城宮の離宮的な施設または皇族等の邸宅(宮)であったとも考えられるため「宮跡庭園」と名付けられました。

 

 保存状態がよく、奈良時代の意匠や作庭技法などを知ることができる、きわめて貴重な遺跡です。昭和53(1978)年に国の特別史跡に指定され、奈良市が庭園の復原整備をおこないました。平成4(1992)年には国の特別名勝にも指定されました。

 

 この庭園は、奈良時代中期(750年頃)に造られ、池の改修や建物の建て替えを重ねながら、平安時代の初めまで存続したと考えられています。現在のものは、奈良時代中期ごろの様子を復原したものです。園池は発掘した本物を露出展示しています。

 

平城京の条坊と宮跡庭園 平城京の街は、道路(大路と小路)が碁盤目状に通っており、道路で囲まれた区画を条・坊・坪で表します。宮跡庭園は平城京の皇居や政務区域にあたる

平城宮の南東に位置し、ひとつ分の「坪」全体の中に建物と塀が計画的に建てられています。

 

 敷地の中心には玉石を敷き詰めたS字形の「曲水」を形づくった園池が配され、その西に建物が建てられています。建物から池を眺めたとき、その向こうには春日山や御蓋山といった東の山並みを望めます。

 

 これらの立地に加え、平城宮と密接な関係を示す木簡や瓦などが出土していることから、この場所は公的な饗宴のための施設であったと考えられます。たとえば曲水宴や、海外からの客を招いた宴席などが行われていたのかもしれません。

 

奈良市発行「宮跡庭園」(みやあとていえん)パンフレットより

 

各、論文や解説をみるとそのほとんどが新羅由来定説や神仙思想私説を説いた論説もあるが、さすがに平城宮資料館解説では断定せず調査発表に徹しています。

 

平城宮製作レベルでは盛土ではなく平地、池の製作上基本的に掘った土が盛土になることが通常ではあるものの、宮跡庭園は遣水、東院庭園について掘った土はいずれ何処に敷き均されたのであろうか。

 

かなり大胆な推測では、元々の支流河川を流用した可能性や材料搬入時の陸路ではなく水路利用後の転化であったりしたのではないか。夜書いたラブレターぽく、かなり大胆な推理の元書いています。

 

池の中に中島を作ってそこに神仙蓬莱思想もこのころの特徴、これは池を遥かな海に例えるところからきていると考えられている。

 

海の無い地域での無い物ねだりとすれば島と海と見るのが当然の様に思われるが、自身の率直な意見では島ではなく中洲、海でもなく河川敷の岸辺と捉える方が自然であると感じている。

 

まず製作材について、池泉の汀については玉砂利で構成されている点については吉野川がモデルと書かれているが、近くを流れる木津川の地理的な影響も考える方が自然では?とも思われます。給水路と排水路をみると給水層と排水溝が地形的に設えられている。

 

発掘に関わったわけではないので何とも言えないが、先に記したように木津川流域に見られる河川敷がモデルか、敷かれた玉石も現地調達材であったのではと推測もできる。

大きめの岩組が組まれている箇所は築山と称されている神仙は、やはり正倉院にあるように仮山であったと…….。

 

浄土庭園は宗教観が強いが、東院庭園と宮跡庭園のつくりは、国風形成という時代を経た平城宮庭園であり、国風庭園の初期造形と感じました。

 

手元にある宮跡庭園パンフレットを見ると敷地東側園路が若干起伏を帯びた園路なので発掘用土で形成された園路かなと想像出来ました。ここで疑問が湧くのは土木的な単純な「掘ると盛る」がなく平坦である事、遣水を取り入れた事由は?製作材の礫材(玉石等)は何処の素材だったのか?東院庭園発掘調査「考察」では「平城宮から出土する主な石材とその産地」に近隣河川よりと短い一文で済まされている。

 

万葉の庭、浄土の庭。

 

自身の中で庭はどの様なことであっただろうか.......。

立ち返るいい機会と思い、すきな様に思うように書いてみよう。

 

先ず宮跡庭園、平城宮東院庭園については、生活や営みといった庭がどうであったか?

ここ最近、デザイン脳で庭を観る時に次の様な姿勢を以て考える様にしています。

 

人はどの様に見て人はどの様に感じ、人はどの様に使うのか、つまり人を知る事。

単にどの様に見え、どのように感じるかではなく、すなわちどう機能するかがデザイン。

理解を得るのであれば成りきる事であると思うのです。

 

以上の事をふまえると.......。

 

見て不思議だったのは築山もない平坦地庭園であったこと、土木的な判断で云えば実際依水園の池向うは明らかに池制作の際に出た用土で築山として三笠山を含む若草山を借景とした景色をつくっていると判断できる。

 

或る論文には吉野川がモデル?とあるが、遠くないか?地図を見ても木津川流域の影響の方が近いか…….。もしくは大和川支流の佐保川が平城宮間を流れている。しかも礫材については粒揃いの礫材は豊富にある佐保川で調達した方が早いし形状確認も景色上確認し易い。

 

実際、奈良期(1300年前)国土地理院による奈良盆地周辺の地形変遷をみると、「奈良期には、海面の低下により、生駒山地の麓まで入り込んでいた水域は、浅い淡水湖に変わり、さらに淀川の氾濫によって運ばれてきた土砂の堆積により、淡水湖も消えかかって大阪平野が広がってきます。

 

 

奈良盆地においても同様に、沼地や盆地湖が消えかかり、氾濫原に変わってきています。この頃に都が藤原京から平城京に移されました。佐保川、大和川を経由して難波(大阪)から人や物資が運ばれていました。」とあり、生駒山地と笠置山地の盆地にあるこの地理的条件であれば、建築材料等は河川路を使った流路であることが伺える。

 

 

つまり佐保川支流と木津川は繋がっていて淀川に至っていたのかもしれない。細流河川を運河の様に使いこなし物資機関として利用され後に遣水として流用された可能性もありえる。

 

なによりも礫材は古墳構成に多く使われている。東院庭園発掘調査「考察」では粟田真人遣唐派遣後、園地影響が大きく占めている旨が出自されている。

 

浄土庭園に立つ一本の燈籠は、お灯明であったのか?

宗教的に憑代(よりしろ)明かりを以ての導標(みちしるべ)、まぁ夜は暗いから立派な照明器具として装飾を兼ねてる。当時は相当な時間と労力をかけたものです。

 

奈良は私にとって庭園という意識より遺跡という意識の方がつよく、現存する庭ではないと思っていたが、遺構発掘作業により作られた庭で制作材料の出自や作成要因など当時の住居環境を知る上で基本的な住まう上での生活習慣に思いを馳せるいい機会だと思った。

 

2018年暮れ、奈良滞在時に慈光院や當麻寺奥の院も浄土庭園ではあるが、今年改めて土留材として使われた材料豊富な浄土庭園を見、平城宮東院、宮跡庭園と比較してしまうと汀の石が多すぎて不思議と険しさ懸崖が俗物に見えてしまう。

 

石組みは言わずとも既知である仮山をモデルとした岩組ではあるが、部分的にあるだけで十分華厳を表現出来ていると認識できる。時代が下る園地は足りないというより、多いのだ。それはおそらく作庭能力はあっても製作意図と造形がズレていると感じてしまったことにある。

 

枯山水は逆に盛土をして砂利を敷くと海という概念になります。なので曲水の宮跡庭園、東院庭園を見るとどうしても河川敷に見えてしまう自分がいます。

 

 

 

では当時の築山という概念はこの「仮山」であると云われています。

 

 

「仮山」※著作権のため画像をぼかしています。

 

なるほど険しい岩やま、概念的に理解出来ました。

 

若き頃の憧れは京都であったのは観光メディアや雑誌といった華やかな印象形成があったことはまちがいない。還暦も過ぎ年金年齢にもなると庭の見方も若い頃の見方や捉え方が随分と変わってくる。変っているのは私自身だけか、自身の偏りや抱く印象差が現在に影響しているのかもしれないが、捉え方を俯瞰で見るようになった事は自身が感じる所でもある。

 

その中でも平安期以前にみられる浄土庭園という遺構の発掘で現れた島、海、玉石で覆われた汀、あちらとこちらを繋ぐ橋、灯明導きである燈籠。それらは現世と浄土というストーリー性を帯びている。

 

特に何故池と島であったのか。そして、住まいとしての庭園機能は何であったのか?それは単なる鑑賞性を前提とした庭園要素だけではないと要素理解も感じている年齢になってきたのかもしれない。

 

それら年齢的な庭の見方、感じ方を記録しておきたい。

 

なにせ若い頃は製作技術的な部分が気になってお多福面、福笑いの遊びの目鼻から庭を観ていた自身から家と庭、住まいとしての庭を捉える時の基本的な人の営みからみた庭として見えるようになった。

 

つまり、観賞だけの庭園から住生活庭園といった当時の庭とはどういうものであったのかを想像する愉しみを伴う見方をすることを勧めている。

 

ただし、平城宮庭園は神仙思想であると説く解説もある。しかし、東院庭園を見てもにわかに神仙を感じる事は無く、むしろこの浅い池に緩やかな流域と排水路があり、鯉やフナがいたとしたらどう感じたのだろうと.......。ふとその様に感じた。

 

そこで、幾つかの疑問を感じたので、ここに挙げておこう。

 

第一の疑問

遣水や池がある理由は何だったのか?

素直に森蘊氏が云うように、観賞園地であるのか、防火用水であるのかの境が難しいと当時の書物で書かれていたのを思い出す。現在ではこちら関東の鎌倉鶴が岡八幡宮は神社がメインとして成立しているが、明治初期廃仏毀釈を以て且つては鶴岡八幡宮寺という寺であったと再認識しているところでもある。

 

地理的に平城宮跡の計画時は様々な河川支流や起伏があって青龍白虎を基本に治水を巧く取り入れたのではと全くの素人考古妄想を披露します。(笑)

 

建築であれば五欲を通じて想像する事がいささか慣用ではあるが、庭と生活環境となると現代においても庭で過ごすということはどの様なことであるか、すぐに答えの出るものではない。

 

しかし、飲食(おんじき)に伴うのが給水と排水、井戸、厠といった生活排水環境であるが、ただ単に池の給排水があるとは思えない。

 

第二の疑問は、東院庭園については複雑な汀ラインは中洲のある河川敷に似ているので神仙思想の海や島ではなく、河川や湊がモデルではないかという疑問、水源となる菰川(こもがわ)があったということなので礫材等の搬入は河川流路を利用したのかもしれない。

(・_・D フムフム 説明書きには給水ではなく、導水とある。

 

第三の疑問

遺構発掘の際、汀はほぼ平坦地にあるので掘り出された土は何処に行ったのか?つまり、河川敷を表現しているので築山は仮山で土を盛るという概念がなかった。

 

土木的な推測をすると山地であれば斜面地の造成から出土した土等を押し出す事により広い平坦地を作り出す事ができると同時に雨水排水等処理に池や遣水といった機能循環に利用する事も可能だと思う。

ご覧の様に画面右側の様に発掘時の用土がかなりの量が盛られ現在は園路公園になっている。

 

第二の疑問の水源となる河川支流、菰川(こもがわ)があったということなので建築資材や礫材等の搬入はこの当時から搬入能力があったとしたら河川流路を利用したのかもしれない。

 

国土地理院による奈良盆地周辺の地形変遷をみると、沼地や盆地湖が消えかかり、氾濫原に変わってきています。この頃に都が藤原京から平城京に移されました。佐保川、大和川を経由して難波(大阪)から人や物資が運ばれていた。とあり、地形変遷から考慮すると平坦地になり易い地理条件が重なり、元々あった流路を利用した運河ではないかと自身の抱いた謎はひと通りとけた。

 

時代が下ればもっと詳しい事がわかるかもしれない。

次回は奈良の地元に愛された「たつみや」の鋏です。