久々に手に取った『雑木と雑木の庭』

久しく書棚から消息が掴めなかった43年前の書籍『雑木と雑木の庭』1977年 昭和52年4月1日誠文堂新光社刊を手に入れた。今から15年程前、古書も無く途方に暮れてた頃、日大の新舎屋の図書館で借りてスキャナを取って以来の書籍。

 

雑木の庭

雑木は不思議な造園材である。元はと云えば薪炭林に於けるクヌギやコナラ等の伐採後、コンプリートされた株の立林を造園材としたものである。関西で謂わば裏杉丸太の垂木取りする台杉と同じく用材。

農村開墾の苦労もあったであろうが、人が入植して自然と人との合間を里山といい、様々な恩恵を受けている。

 

その雑木の姿は環境によって細身もあれば薪炭林の様に数株を懐に持つ樹もある。

飯田十基、中瀬操、小形研三、蛭田貫二、深谷光輝、井上綱宏、荒木邦衛、小島佐一、雑木の第一世代作庭家。

 

第二世代は、平井孝幸氏や福住豊氏が現役で活躍中。

 

ああ、こんなデザインだった。

 

昔はこういうものをつくっていたんだとか、え~もうやってるヤツいるじゃん、とか未だにオレ知らねえじゃんって四半世紀過ぎた画集に思う年頃です。

 

と思って造ってきた庭はいずれも必然性を経て作られてきた。

 

では、深山幽谷、瀑布や遣水、泉水は.......。

雑木を植えると雑木の庭になる.......。

 

雑木の庭

植栽材料、雑木を植えると何となく様になって雑木の庭になる。

 

露地の庭

造園材料、蹲踞、役石、燈籠と添え樹を植えると露地の庭になる。

 

材料なので.......。労せずして利を得る.......。

 

師に就かないで独立する人と修行に出て独立する人。

 

就かない人、何でもアリ! 改革こそが命!とか

えっと.......。オレは就かない奴は.......苦手.......。

 

就いた人はめんどくさいけど、理をわかってる。

古典命!それ程の歴史はないけど 伝統、伝統!

 

いいのか造園!って

 

言い過ぎか.......。

例えば、露地庭の形態が庭園史の中で一つの完成地点としたとき、蹲踞と役石、燈籠と添え樹があれば庭の形態が成立する。本来、身を清める設えが景色施設としての設えに代わってしまった様に雑木の庭は且つての風が吹いてもピタリとも動かない造り木に取って代った新鮮さは一世代終えた時点で消え失せている

 

そして事後に出てくる要素.......。

 

3、意味と理由

 

意味と理由の違い。

 

そういえばYahoo相談室にこの様な解答がございましたね。

 

「そんなことして、なんになるんだよ~」が意味。

 

事前ぽい。

 

「なんでそんなことしたんだよ~」というのが理由。

 

事後ぽい。

 

デザインにはやはり発想の出発点があると思います。

 

例えば、ここが不便だからこうしてね。とか、

ここをこれにしてこうすると便利~とか

だけど慣れちゃってるからこれでいいのだ!って

 

「なんでそんなことしたんだよ~」というのが理由。

 

そういえば『庭の意味論』っていうご本がありまたね.......。

 

「そんなことして、なんになるんだよ~」が意味。

 

言い得て妙かも.......。

 

現場実に伴わない

今読んでいる『尾張藩江戸屋敷の謎』をみるとその広さなんと136000坪、約448800㎡埼玉国立武蔵野丘陵とほぼ同じ面積が新宿7丁目の隣戸山1から3丁目に尾張藩江戸屋敷があった。

 

その庭には小田原宿や箱根山といった模擬地名がつけられていたという。必然的に深山幽谷の景や池泉も作られた。深山幽谷となれば陰樹陽樹と雑木を含めて山中を表現していたと想像が付く。

 

そうした意味でも椿山荘造営に関わっていた岩元勝五郎が描く庭造りはやはり深山幽谷がふさわしい。

 

恐らくはその武蔵野のもつ雑木の魅力を随筆『武蔵野』に見られる花見ではなく新緑の緑陰、爽やかに風を感じる枝葉、こうした今までに気がつかなかった身近な空気感に当時の人たちは感づいていたのだろうと感ずる。

 

そして幕末には津和野藩深川浜屋敷では毎月十八日に庭を開放し諸人を入れ人丸社の参拝を許諾していたという。

 

明治以降、能、芝居、角力興行をたて、茶店や酒店を設けて遊嵌遊興のばになっていた。明治五年山下御門内元薩摩藩屋敷で博覧会が開かれている。

 

この戸山荘の絵を見る限りではせいぜい枝打ち程度の管理で身近な樹木の剪定以外はそのままの風情を確認出来る。