幕末からの動乱や廃仏毀釈や神仏分離、上知令の影響でどの様にしていたのだろうか。そうしているうちに出された資料が昨年2017年に出た京都大学学術出版会:京都の庭園 上

www.kyoto-up.or.jp/book.php?isbn=9784814001019 

 

京都の庭園 上. 御所から町屋まで. 飛田 範夫氏のご本。さすが飛田先生よくお調べになっています。今回かなり参考になりましたが、植熊の存在は今一つ明らかになりませんでした。

 

翌日、6日にお会いした植彌加藤博士もご存じないという事でした。是非次回、機会があれば植熊さんに直接聞いてみようと思います。

 

京鋏大覚寺

大覚寺の鋏は1973年昭和48年口清が廃業し、京都太秦、大覚寺の近くで野鍛冶をやっていた野中氏。周辺には植木屋も多く、鋤や鍬鉈などの注文も多かった。当時、口清や正隆の鋏はでっぷり太く握っていたらタコができるようなつくりであった。野中さんの工夫で鋏を作り上げる。

 

口清の鋏は実際太目で自重があり、打ち鳴らした時の音もいい。例えが良いかどうか判断しかねますが、リーガルの靴の様に程よく重さがあり安定感を感じます。30年前に使っていた鋏の重さは252g通常の重さは250gと思っていい。重春246g口清270g大隅297gとすると口清の鋏は20g重い。270gの目安はUCC 上島珈琲店 ミルク珈琲 270gとほぼ同じ重さ。

 

ちなみに、およそ10gの目安はミニトマト(プチトマト)一個に相当するらしい。

 

 

大隅細足252g

 

重春246g

 

口清270g

 

大隅全鋼297g

:今までの切箸と同じ重さで切り口の綺麗な鋏を作ることに成功。

 

キリバシ8寸で255gこれはあらまし想像ができる。

 

焼き入れして強度を増し、華奢ではあるが剛性がある。

 

7.5寸で237gのキリバシは、バランスの取れた大きさになっていて使いやすいですね。

おそらく手入向きの大きさと云えるかもしれません。

:刃の寿命となると、刃先だけ交換した。

 

これについては、ブログにあるように慣れた持ち手に固執したため溶接で刃の部分を付けた。

 

溶接の技術が素晴らしい技術だと想像できます。作業場に勾玉の様に下がっていたのを確認しました。

 

馴染んだ持ち手と刃が交換出来たら理想的だと思いますが現在では無いということは、鋏の使用頻度が低くなっているという事だろうか。

確か30年前の一丁の値段はたしか8000円ほどだった記憶があります。

 

どうしても材料や政策手間を考慮すると親方一人工分以上の制作価格はかかりますよね。

 

大覚寺の初期の鋏は丸棒のかしめでなく、大きさの違う片方だけ回るかしめだった。

これは「かち込み」といって、片方を止める技法で播州物に多い技術です。片方を止める事で芯金を打ち丸め易い工程の一つであったろうと考えられます。

 

もしかしたら口清さんの初期は「かち込み」だったのか、という疑問から質問しました。が、そうでもなかったようです。お客さんからの要望で、芯金を途中から7mmの丸棒に製法をチェンジ。

 

鋼に軟鉄を付ける。

これについては、鋼の厚みと裏スキに関係していて、厚みがないと裏スキが出来ないのと厚みと重さを軽減するための工夫だったと推測できます。ご存じのとおり京鋏は当初からガタガタに出来ており、堺の鋏面で切る構造と比較すると京鋏は点で切る構造といえる。その時、口清さんが云っているように「噛みださない事」というのは、空握りの際に握り締めた時、刃どおしが噛合う事を指し、お互いに鋼の剛性と裏スキ部分と擦りあう併せの微妙な部分が働いて切断に至っていることになる。

 

 

画像は、京鋏三態、左側が口清型(神戸型)といわれる形、ツル部分を取ると素直にキリバシになる。右側の胴長タイプはこれよりももっと長い胴長を希望されることがあったそうだ。(重春の当主談)

 

 

 

現在の京都に現存する京鋏を見ると重春・大隅・野中これらの特徴として鋏が回転する構造になっている。

これについては、鋏を研ぐ際大変便利な構造となっている。

 

芯金が丸棒の特徴をいうとある程度使い緩くなったころ回るようになる。この構造に慣れると手放せません。