大阪来阪 初代のお弔いと正定継承について

 

2018年8月24日、台風の影響が日本海へ抜けた朝8:08小田原発新幹線にて大阪河内長野についたのが午後12:10ころ、数度となくお世話になった正定の工場を尋ねるため来阪。実は今年春、平成30年3月26日田中定治郎親方はインフルエンザが要因で肺炎のためお亡くなりになった。現役63年を終えた正定のオヤッさんの供養、新盆ということもあり工場兼自宅へ訪問してきました。

 

修行と奉公 

定治郎親方は1931年昭和6年産まれ12月7日羊年、当時の小学校令では、尋常小学校6年、高等小学校2年とされていたので、尋常小学校は6歳で入学、12歳で卒業、高等小学校は12歳で入学して14歳で卒業。卒業後鍛冶屋に奉公とあるので戦後昭和19年に修行に入ったことになる。

 

1944年昭和19年は大東亜戦争が徐々に形勢不利になりつつある年、おそらくは軍需生産の一端を担っていた時代だったのかもしれません。その翌年5月3日極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷、5月12日皇居に米よこせデモ。19日皇居前広場で食糧メーデー、8月12日経済安定本部・物価庁発足。12月21日南海道大地震。死者・不明1464人。当時の日本はほとんど物資もなく極貧の経済状況にあり、超インフレ状態でお金より物資、そんな時代を過ごしてきた。

先代の楠本親方の3番目の弟子であったオヤッさんは、修行場所北庄町、敷地内にある工場へ通い、三畳に二人の住み込み、昼間はその三畳間で建具屋が仕事をしていたそうです。名は明かせませんが、京都池坊に入れている老舗店の刻印をはじめ、名だたる販売店に卸していたと云います。修行先の鍛冶屋は楠本親方が継いだ。既に引退した太助の疋田さんをはじめ、楠本さん以降には継承者がおりません。高度成長期とともにこの日本を支えてきた大先輩であることには間違いありません。

楠本親方の工場にあった鎚

正定の親方が修行中振っていた鎚かもしれません。内弟子のサトちゃん(讃岐悟氏)は生存中親方とともに楠本さんにも会っており、床や鎚を継承しています。

 

終戦の翌年、復興政策が始まったことは確かですが、物資もなく大変な時代であるとこはここでは書き表せる事の出来ない時代背景であると考えられます。しかしその4年後、朝鮮半島動乱が起りの戦争勃発直後の1950年(昭和25年)6月以降、日本は特需により経済は復興し始めた。河内長野に戻ったのは1955年昭和30年25歳の頃だと2代目田中和男氏が云う。尋常高等小卒業で修行、25歳にこの河内長野に戻ったという事であれば、まる10年の奉公とになる。独立後は華鋏ばかり作っていたそうです。その後、近所に来ていた植木屋に植木屋鋏を依頼されたのが始まりだという。

 

植木屋鋏の構築

古流の花ばさみには幾つかの種類があり、未正流・池坊・専慶・松月古流・古流、その中でも特に難しい縁付けの形態が難しく高度な技術と正確性が要求される鋏と云える。しかも、刃の形状や型については、太助や佐助の仕事も漏らさず体得できる環境にいたこともあり、その中の古流の花ばさみを作った経験があれば佐助や太助、市松を見てきたオヤッさんであれば訳の無い制作事であったとおもわれる。

おそらく、独立期は神武景気とともに高度成長期の大阪を過ごしたのかもしれない。戦後20年で復興し、オリンピック・万博へと希望に燃えた日々であったろうと考えられる。そういう事であれば当時の花嫁修業といえば、お茶お花の全盛時代。多くの道具が作られたと考えられる。「昔は、紅い花鋏がよう売れた」と云っていたオヤッさん。自身の子供時代には大工道具セットなるものがその時代男の子の家庭には少なからずあり、夏休みの宿題工作に鋸や金槌、鉋といった道具は一つのおもちゃであった。

 

一路河内長野へ

今年の夏は文字どおり酷暑、雑踏から郊外の河内長野もこの日中、まとわりつく暑さは変わりません。駅で迎えに来ていただいたのが正定さんの内弟子讃岐悟さん。そうそう何時だったか、ここ全国でも有名になったマクドナルドがありましたね。あの頃妙にマクドナルド叩きが盛んでした。讃岐さん曰く、この河内長野住人のマナーがとてもいいところと紹介されていました。

大阪駅よりJR関西本線奈良行き→新今宮→南海高野線→河内長野。

ここ河内長野は10月の2週目にはだんじり祭が行われ、ぶんまわし(全地区)や、曳き歌(市町東、向野町、三日市地区)、やりまわし(三日市地区)などの泉州や南河内など様々な形態の祭りが盛んに行われている。 また、爪楊枝(つまようじ)の産地としても知られており、全国の爪楊枝の生産の大半がここ河内長野で行われている。あれ、何処かで楊枝の頭部分がコケシっぽいって何か放送していましたね。2018年8月24日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。 「なぜつまようじには溝がある?」偶然見ましたよ、凄―い。 Wikipediaより

http://xn--h9jua5ezakf0c3qner030b.com/2126.html 

 

 

昨年暮れ、脩吉の鋏修理の前に依頼した京都菊一文字の刻印の入った田中博氏の剪定鋏を渡され、二人で昼食を済ました後、訪問し佛間にて合掌。オヤッさんの凛々しい姿が飾ってありました。後から戻られたご子息カズオさんより、当時の状況を窺いながら往時を偲んで思い出話に、「工場の中へ、ここでいつも座って……、こうして研ぎを入れて、シュッシュッと、両手の片われ見てこれは最後にしていた仕事、失敗の原因は何か?両手鋏のハガネ、いつもは入れない方向への砥石、失敗したものは決してほかさない」

 

内弟子のサトちゃん(讃岐悟氏)内弟子修行歴は7年になります。

 

仕事場

一見乱雑に見えても仕事の流れはこの状況でよし。そう、作業場はそのままに残されている。そして、遠くに見えるのはオヤッさんが借りていた畑、今では近くの田の稲よりも草丈の高くなった雑草が見える。みのり待つ稲穂の田圃路からいまにもカゴを背中に帰ってきそうな気がする。今年、大阪金岡にあった脩吉の鋏修理を出したのが私の最後の依頼になりました。自分の若い頃作った鋏がひょんなところから戻って来る。内弟子悟さんがその時の状況を話してくれた。

 

脩吉作を扱う金物店は、堺金岡駅の近くでV字道の辺に金物店があったそうです。およそ50年前、独立後10年ほど経った30代半ば過ぎ正定さん打ち始めの頃の鋏、池坊鋏としても認められていた花鋏で有名な「脩吉作」の鋏。花鋏から植木鋏につくる鋏の種類が増えていった頃のことだそうです。

 

この鋏の特徴、「裏ベタ、直刃、軸はニ角ではなく丸リベット」が特徴、あれ?何か違うぞ?実際気が付いたのは翌日、正定と比較した時に、脩吉作の方には無い。

 

その部分、正定のオヤッさんがかなり諭したそうですが、店主のリクエストだそうです。

おやっさんの表情や言葉は随分懐かしく鋏を触っていたそうです。「これなー、ここ、こないにしたらいいのにと金岡の親父に言ったんやー、ずいぶん言ったんやで―」と愛おしいそうに、いい鋏を作る前向きな姿勢が感じられます。おそらくは往時の忙しさを感じながら修理していたに違いない。この脩吉の鋏については以前のブログでも紹介している。

ブログ木柄剪定鋏と脩吉作/植木屋鋏1~3 

 https://ameblo.jp/primrose5591/entry-12325568641.html


一目でオヤッさんの癖が判る鋏であった。

 

「正定」継承 2代目田中和男氏と内弟子、讃岐悟氏

さて、ここからは今後「正定」どの様になるだろうと多くの「正定」ファンは思ってらっしゃるところだと思います。まず、二代目の「正定」はご子息の田中和男さんになります。今後は内弟子の讃岐さんから鋏のイロハを教授されながら親方の今まで作られた植木屋鋏の在庫販売とともに「正定」の看板を掲げ続けます。そして鋏の修理及び新規注文に関しては内弟子の讃岐悟さんが継承していく事になりました。

二代目は過去何度か継ぐことを希望したそうですが、小僧から槌一本で生計を立てることがどれほど大変な事かを自覚しているオヤっさんにとって、会社員という安定性は大事であると諭し、経済基盤の理由から許可は下りなかったそうです。その後、何人かが申し込んだそうですが「ヤメときー」とつれないことば、生計が経たないということでしょうか、やはり断ったそうです。

 

継承鍛冶 内弟子 讃岐悟氏

其処に讃岐さんが何度も、何度も訪ね、その情熱に絆され内弟子になった経緯があります。おそらく今まで来た弟子希望者にない意志が伝わった瞬間だったのでしょう。内弟子の讃岐悟さん。内弟子になってまる7年、一通りのことが出来る様になって以降の修理はもちろん。繰り返し、繰り返し親方の動作を体で体得する。

「その肘!そこまで、脇があまい。そう!そこから打ち落とす、何から何まで、こと細かな指示」その言葉と教えを練り返しながら打ち込んでいたのがこの7年、お義父さんも愉しそうだったと、2代目の奥さんからは目をうるませながら悟さんの思い出を語っており、思わず目頭が熱くなった。

 

オヤッさんの遺言

工場で話し込むこと数時間、一通りのいきさつを伺い懐かしんでいるとき、亡くなる前のオヤッさんの遺言があるということでその遺言をうかがった。それは、オヤっさんが亡くなり、2代目の奥さんが工場の帳場周りを整理していたところ、重く白い発泡スチロールが出てきた。


どうやらこれがオヤっさんの遺言らしい。


「オレがうったものを、うっとけ」


という遺言。

 

わかりますか?これが亡くなる前の関西独特のコテコテの遺言、まぁ他の件もあって総てではないでしょうけど、これ吉本みたいなセリフで笑えるでしょ、目うるませながら「オレがうったものを、うっとけ」ですよ。


それでもって「正定」は生きていました。在庫の捌けるタイミングも計算し、内弟子のサトちゃんが熟練期に入るのを見越した見事な遺言です。


「オレが打ったものを、売っとけ」ですからね。


現在の在庫種類から

正定

津島

国重

松原

葉刈りバネ

 

刃物屋宣言

以前から、刃物屋やりたいと思っていました。店の名前も、やるなら「はさみや湘南」ちょっと語感が林家正蔵っぽい、店名まで考えていました。それまで鋏の知識歴史を体得し、刃物屋として旗を上げたいと思っていました。今回、オヤッさんの処に来てサトちゃんを交え、和夫さんと奥さんの話を聞けたのも何かの縁だと思います。今回の工場で見た在庫、どの様にしておろし、どの様に販売していくのか基本的なお話をさせて頂きました。

 

先ずは、今後讃岐さんという後継者がいるという事なので供給に関して心配することがなくなりました。希望を云えば昔のようにあまり高価な価格設定はせずにどんどん使っていける道具・価格にしたいと思っています。おそらくお客がないと思いますので暫らくは対面販売とネット販売を主に行っていきたいと思います。

 

いずれにしても在庫の管理・価格設定・ネットの整備が整い次第、この関東から販売を始めたいと思います。