再びキリバシ

キリバシは、金切はさみ等の呼称に現在でも切箸と呼んでいる。これは箸状の先端にX刃が付いている形状をいう。「和漢三才図会」百工具によるとカナハシの語源が出てくる。形からは、指輪の無い正倉院の金銅剪子に通じる形状であることがわかる。

 

キリバシの使い方は、鉢回りの削り取りや掘り取り、根巻の縄通し、竹垣の雨直し、クリ針挿入時の目抜き、棕櫚縄切断にも使う万能鋏。通常の手入れにも使われる。

京都大隈安広製1987年の切箸

 

京都大隈安広刃物店パンフレットには「根切」の文字がみえる。先述したように移植時に樹木等の根を整えたりする目的の鋏といえる。この件については、鍛冶修行に励む河内長野のS氏に聞いた話であるが、S氏の親方が京都で活躍していた時代、小宮山博康氏への入門時「切箸と地鏝」を持たせるという。これは庭造りの際、土木に伴う作業から最低限揃える道具でまかない、剪定管理の発生するツル付の鋏はその都度、揃えた事が推測できる。つまり、作庭後の手入が数年後から始まり、機能的なツル付きの道具が活躍することを意味する。

 

京鋏 口清

口清の開発したキリバシは、鍛冶屋の使う掴み箸(切箸)から派生したものと伝えられた。また、きりはしの使途用途によって刃の仕上げを変えていた事も伝えられている。

(根切りを専門にやる鋏と、透かしを専門にする鋏と両方使う鋏。これによって焼刃が皆違う)

 

過去に板金鋏について書きしるしたように、板金鋏の活躍は日露戦争当時の日本陸軍内に対鉄条網や対有刺鉄線であることを記した。日露戦争に活躍した洋鋼が普及したハガネが1909年 明治42年、「河合洋鋼商店規格」スエーデン鋼、所謂「東郷ハガネ」と推測できる。今までの様に玉鋼生産で賄いきれなかったハガネ生産が洋鋼によって一気に解消された。

 

2015年、京都の刃物史を探索しているOさんにより、京都の輪鋏が明治末期から大正に掛けて開発されたものだということが明らかになり、口清が現在の京鋏の祖であることが新聞社や地方コラム誌で明らかになった。この文面で気になったことを箇条書きにしてみた。

 

1,「植木職という専門の職業と同時に生まれてきた」と近藤氏が云っておられること。

2,明治40年ごろまでお多福型が沢山使われていて、もっぱらその型を製造していた。

3,明治末年ごろから大正初期にかけてお多福型に色々と使いやすいように工夫を加え、神戸型(かんべがた)を作った。(神戸型は庭師神戸氏の先々代政次郎氏と口清の近藤清次郎(2代目)との合作で神戸型という)その後、三代目が神戸型を基本として、今日の現代人に最も使いやすい形として、いわゆる口清型とも言うべきものをつくった。

口清略歴

口清―初代 清 助(1850代―?)京都三条鎌制作

口清―二代 清次郎(1868 M元-1936 S11)鎌・鉈・植木鋏(おたふく型)神戸型へ改良

口清―三代  清三郎(1898 M31-1975 S50)現在の京鋏

画像は、京鋏三態、中段が口清型(神戸型)といわれる形、ツル部分を取ると素直にキリバシになる。中段、下段の胴長タイプはこれよりももっと長い胴長を希望されることがあったそうだ。(重春の当主談)

 

画像は、大隅刃物製若干口清タイプ異なる。「1980年と2010年製」ツル手部分を加工している

 

口清の鋏は「植木職という専門の職業と同時に生まれてきた」のこれは何を示しているのだろうか。植木職という専門の職業とは管理の仕事が増してきたということを示しているのかもしれない。

江戸期における二系統のお庭師、地域諸藩に於けるお庭師がいたこともあきらかではあるが、庶民格では稀な存在であり、江戸期では個人の土地所有はなく。個人所有になるのは、1873年明治6年土地の地租改正により私有権化される。

庶民の庭となると時代はさらに下って個人の資産が経済的に安定する明治30年前後に普及したと云える。庶民にまとまった資金調達を得られる要素といえば安定経済が望め安定就業が整備されたことを云う。資本主義成立や地租改正による地主、日清・日露戦争で得た戦争特需や年金で手に入れた土地に家屋、庭を築造し近代の住宅庭園を得るのは明治の末期から大正に掛けてと推測できる。

 

維新後の京都の背景

1877年明治10年は、西南戦争。1878年明治11年には、大久保利通が暗殺されている。それから2年後のこと。このころの京都は、不況のどん底であった。元来、苦しかった財政に加え西南戦争の費用が重なり、負債の利子だけで国庫収入3分の1を超える劣悪な経済状態だった。

維新後の京都は先述のような経済状態にあり、不況を脱し始めたきっかけは、1883年 明治16年、現在の京都御苑、京都御所の大内保存事業が完了し始めてから1890年 明治23年、京都復興琵琶湖疎水竣工式の頃からにわかに京都は復興した。

画像は1890年 金閣寺

 

しかし、1890年明治23は不況の年だといわれ、翌年からの経済成長の状況を示している。この期間に最大の成長を示したのは、絹織物業の分野であり、1896年明治29年には1891年明治24年の3.6倍の産額に急拡大しただけでなく、繊維産業中の最大分野にもなった。綿織物と綿糸紡績は、どちらも同じ期間に2.5倍前後の成長をし、絹・綿とも、日清戦争の前年である1893年明治26年から回復が鮮明となり、日清戦争と重なった2年間の成長が著しかった。

1890年代からの日本経済

1890年、明治23年日本ではじめて7月に最初の総選挙が実施され国会が開催された政治の年であり、銀行業者にとっては恐慌がはじまった年。明治維新後1880年、明治11年後半に、日本で第一次産業革命が起こり、鉄道業と紡績業が中心の好景気となった。このころ企業勃興という株式会社の設立が流行した。1886年明治19年から1889年明治22年にかけての鉄道や紡績を中心とする企業設立ラッシュのいきすぎが資金不足を引き起こし恐慌が始まっていた。

 

特に関西方面の状況が切迫しており、多くの銀行が倒産しかかっていた。1880年代前半 大蔵卿松方正義による紙幣整理 日本銀行(1882)を唯一の発券銀行とし、国立銀行は普通銀行へ。極端にマネーサプライを減少させる。これを「松方デフレ」という。

 

 農民は春にはインフレの中、高額で肥料などを購入していながら、秋にはデフレで農産物価格が暴落しているということになる。今なら、収入に応じて納税額が決まるが、当時は「地価の3%」であった。このため地租が払えない中小農民が没落して小作農となり、逆に余裕のあった有力農民は土地を買って寄生地主となった。「松方デフレが寄生地主制を確立させた」と言われる所以である。

 

明治以降の寄生地主。明治6年に地租改正が行われ、従来の米で納めていた年貢が土地価格(この地租改正によって決められた価格で地価という)の3%(反対により後に2.5%になる)の定率、つまり定額をお金で納めることになり、米の不作の時は収入が減り、豊作でも米の価格が下落するので実質収入が下がる。

 

したがって小規模の農業経営者は税金が払えなくなり、いずれは土地を手放すことになる。資産に余裕のある大規模経営者(大地主)はそれらの土地を集積してますます大地主となり、やがては農業の自作をしないで都市部に住み、小作人に土地を貸して農業を実施することになり、小作人に寄生しているかのような状態になるので寄生地主という。この寄生地主制は戦後の農地改革が行われるまで続き寄生地主は農地以外の家作賃貸にも影響している。

 

キリバシの持ち方

キリバシがどの様な使われ方をしているか理解しながら持ち方と扱い方を検証しよう。大隅安広刃物店のパンフレットを見てお分かりの様にきりはしは、元々根切りに使われていた。したがって、枝葉剪定管理をするための持ち方は、どの様な体制で鋏を入れるかできりはしの持ち方が推定できる。

 

花鋏の老舗京都安重の「花鋏の正しい握り方」にある花鋏の握り方レクチャー画像を見ると親指と手の平全体で支え、下4本(中薬小指)の指で引き上げる。この握り方で、持ち手を後方にずらす事である程度の太さ約10㎜程度の枝も裁断ができる。

 

 花鋏の切断する状況は、体勢や姿勢に影響なく切断対象(枝)を切断する事が出来るのでこの状況の持ち方は理にかなっている。

 だが様々な場で作業体勢を要求される庭の手入れでは鋏を落さず開閉するための握り方操作が要求される。まず、考えられる持ち方を五つ再現した。その中でA、は指を差し込まない持ち方を基準とした。

A、親指と手の平全体で支え、下4本(中薬小指)の指で引き上げる。華鋏の持ち方

B、人差し指で支え、薬指と小指を引上げ開閉する。ほぼ安定した持ち方で落下の心配も少ない。

C、中指を入れ支え、薬指と小指で引上げ開閉する。この方法だと開閉が少なく切断力に欠ける。

D、小指を入れ支え、人差し指、薬指と小指で引上げ開閉する。この方法だと開閉時力が入らない。

E、人差し指の第一関節と親指鋏を支え、下4本(中薬小指)の指で引き上げる。

さて、果たしてどの持ち方がいいのだろう。