パリ五輪で思うこと  | 日記「ウクライナ人の戦い」 Masanori Yamato

日記「ウクライナ人の戦い」 Masanori Yamato

「ウクライナ戦争」を描くことで、プーチンとは何者なのかを書きたい。

パリ五輪で思うこと   2024/7/27

 

きのう開会式を見ていて、まあ、セーヌ川を船で川下りするんだから、河岸でセレモニーを立ち上げなくちゃいかんのだろうと思いながらも、それを観ていて、何かイマイチの感じを持った。

 

きのう五輪はもうやめてもいいんじゃないかと書いた。遊覧船に分乗した各国選手団はみんな自国旗を振って歓喜を挙げているの見て、オリンピックに参加できるのはやっぱり嬉しいんだなと感じた。きのう、五輪の権威と威厳はすでに地に堕ちている。経費はかさむばかり、テロ防止には莫大な人的物的経費がかかるとか書いて、もう止めてもいいのではないかと書いた。

 

同時にIOCの力を賞賛することも書いた。何カ国と地域が参加したのか知らないが、この参加資格はIOCが決めている。紛争当事国も、戦争の最中にある国も地域も。きのうIOCの組織力と統率力をそう書いて評価したのだが、そして、その組織力と各国への支配力は国連をはるかに凌駕していると書いた。

 

思考はそこで止まっていた。もっと突き詰めなければならなかった。国連をはるかにしのぐ力を有しているなら、国連が紛争解決に無力なら、IOCが政治力を発揮してもいいのではないかと考えるべきと思った次第である。

 

ひとことで言って、戦争当事国の参加は認めないと宣言することである。この一言で、ロシア、ウクライナ、イスラエル、パレスチナ、イエメン、シリア、アフガニスタン、リビアなどが参加資格を失う。

 

IOCはオリンピック参加に政治的判断を持ち込まないと宣言しているけれども、平和的にスポーツの祭典を開くなら、戦争当事国と内戦国にその参加資格はないというだけで、いくつかの紛争が早期に収まることを期待できると思う。

 

スポーツの祭典を行いながら、戦争の継続に関与しないでいいという理屈は成り立たない。紛争当事国を排除しても構わない。参加したければ、平和にしてから来い。紛争を解決してから来いというていい。

 

政治的力から自由であるということに高潔さを自認しているのかもしれないが、戦争と内戦という殺戮の毎日が続いている地域があまりにも多い。スポーツの祭典の開催と和平の実現はどっちが大事か。国連がいまその機能をまったく発揮できていないときにあって、国連以上に各国を支配し、参加国の決定に絶対的な力を有しているなら、その力を政治的に発揮してもいいのではないか。おそらく他の参加国も異論はないと思う。スポーツを愛する精神から見て、参加したければ平和を実現してから来いというであろうと思う。

 

 

写真はWWD JAPANから

 

群衆、テキストの画像のようです