ウクライナ戦争日記37「ウクライナ国歌」 | 日記「ウクライナ人の戦い」 Masanori Yamato

日記「ウクライナ人の戦い」 Masanori Yamato

「ウクライナ戦争」を描くことで、プーチンとは何者なのかを書きたい。

 

 六月一一日(水)

 「コザック」

 

 東部ドンバス地方で攻防は続いている。流れてくるニュースはセベロドネツクでの一進一退の様相を伝えている。これに関して、ロシア側の砲撃が熾烈を極めているという報道と共に、ウクライナ軍が十分に応戦しているというニュースも伝わってくる。

 ロイーター通信が伝えるところによると、ウクライナ軍がロシア軍を一区画後退させると、ロシア軍によりウクライナ軍は一棟分後退した。

 ロシア軍がゼベロドネツクに固執するのは、ここがドネツク州の要所であることから、ドネツク州全部を支配するにはここを占領することが肝要であるからという。また、一二日の「ロシアの日」に戦果を出すようにモスクワから強く要請されていたこともある。ウクライナ軍はここを持ちこたえているが、ロシア軍はがむしゃらに撃ってきているという。建物はほとんど破壊されているが、それでも市民がまだ一万五千人ほどいるという。この市民への被害が懸念されるところであって、ウクライナ軍が引くことができない理由でもある。ウクライナ軍にとっては、脚の長い榴弾砲やミサイルの到着止まっている様子で、今はいたずらに兵器の損失を防ぎたいところであるという。

 時事通信が伝えるところでは、南部のヘルソン州ではウクライナ軍の攻撃が成果を上げていると報じている。ゼレンスキー大統領も九日、「事態は古典している」と述べていると伝えている。

 予想通り、東部では一進一退の攻防が展開されているが、ロシア軍から見るとルガンシクとドネツク州の占領は思うようにいっていないと見ているのではないか。ここ十日余り、この地域の戦況には大きな動きはない。

 

 

 

 六月一日と一〇日の米シンクタンク(ISW)の戦況図であるが、大枠大きな変化はない。この戦況図にロシア軍は不満いっぱいであろう。特にプーチンと国防省はイライラしているに違いない。なにしろ、北部のキーウ攻略に失敗して東部に戦力を集中したのが四月初めである。そこからもう二ヶ月が経過している。その間、ウクライナ軍はNATO諸国からの武器支援を受けながらロシア軍の進撃を食い止めている。もっと射程距離の長い兵器の到着を待って反撃することも可能という。かくも戦い続けるウクライナ人というのは何なのだろうかと不思議に思うと同時に、最大の敬意を示さなければならないとつくづく思う。

 ウクライナの国歌を紹介しよう。「ウクライナは滅びず」という歌である。

 

 

             (国歌「ウクライナは滅びず」より)

 

 ウクライナの栄光も自由もいまだ滅びず

 若き兄弟たちよ

 われらに運命はいまだ微笑むだろう

 われらの敵は陽の前の露のごとく滅びるだろう

 兄弟たちよ

 我らは我らの地を治めよう

 我らは自由のために

 魂と身体を捧げ

 兄弟たちよ

 我らがコサックの氏族であることを示そう

 

 シャン川からドン川までの

 血の戦いに立とう

 我らの故郷で他者の支配を許さない

 黒海はまた微笑み

 祖父たるドニプロ川も喜んでくれるだろう

 我らのウクライナに

 運はいまだ向いてくるだろう

 我らは自由のために

 魂と身体を捧げ

 我らがコサックの氏族であることを示そう

 

 努力と労働が成果を示し

 我らのウクライナで

 大歌はいまだ轟くだろう

 カラパティアの山々に響いて草原に鳴り渡り

 ウクライナの名声は

 諸国の間に伝わるだろう

 我らは自由のために

 魂と身体を捧げ

 兄弟たちよ

 我らがコサックの氏族であることを示そう

 

 この歌詞を読んだ時、わたしはこの詩がウクライナ戦争の勝利を祈って書かれたのではないだろうかと一瞬思った。それくらい、今ロシア軍と戦っているウクライナ人たちの勇気と愛国心にピッタリマッチしたからである。

 驚いた。ウキペディアによると、「ウクライナは滅びず」は一八六二年に作詞され、翌年に曲が付けられたとある。そして、ソ連から独立後一九九二年に、ウクライナの国歌として復活した。二〇〇三年に、ウクライナ国歌法案が成立して、歌詞を一部修正の上、正式に国歌に採用されたとある。

 成立の歴史を知ると、解らないことがいくつもあることに気が付いた。なぜウクライナ人はコサックの末裔と名乗るのか。最初に出てくる「自由」とは何なんだ。シャン川とはどこにあるのか。「敵」とは誰なんだ。

 これらの疑問を解くカギは全部「コサック」にあった。「自由」も「シャン川」も、「敵」も。

 まず、シャン川というのはポーランドに流れている川であることと、ドン川は現在のロシア南部を流れてアゾフ海にそそぐ大きな川であることを知った。ウクライナコサックの活躍の場は西のシャン川からドン川に挟まれた広大な領域であった。そして、真ん中にドニエプル川を抱えて、この一帯はまさに豊饒な地域であった。「コサック」と呼ばれた一団はここを統治した。自らも百姓をしながら、騎馬戦術を磨いていった。

一九世紀末という時代、ウクライナ地方はロシア帝国の一部を構成していた。「コサック」とは、シャン川とドン川の間のこの地域で、ロシア帝国やポーランド王国から自治権を認められて、必要な時は騎馬軍団を組んで傭兵として活躍していた。そういう富裕な豪族たちがウクライナとロシア南部を仕切っていた。彼らは「ザポロージャ・コサック」と呼ばれ、「ドン・コサック」と呼ばれて、地域ごとに軍事共同体を形成していた。

ロシア帝国は一八世紀末までオスマン帝国と領土紛争を繰り返していた。一時、オスマン帝国の支配は現在のウクライナ、ベラルーシをそっくり飲み込むほどだった。そのオスマン帝国からロシアの西部と南部を取り戻すのがピョートル大帝である。だから、「敵」はオスマントルコであり、「自由」は「コサック」特有の酒と遊びに耽る享楽を指していた。現在の政治理念である「自由民主主義」の「自由」とは程遠いものであった。

ところが、その「自由」が今聞くと、「自由民主主義」の「自由」に聞こえるのだから不思議というほかない。ロシアのくびきから逃れようとする「意思」に聞こえるというのだから驚きである。「敵」はオスマントルコから「ロシア」に替わった。

「ウクライナは滅びず」が正式に国歌として承認されたのは二〇〇三年とある。この年は、ジョージアで「バラ革命」が起こった。そして、翌年の〇四年には、ウクライナで「オレンジ革命」が起こるのである。一五〇年前の「自由」は新しい息吹を吹き込まれて解釈されたのである。「我らは我らの地を治めよう」という言葉に、ウクライナ人は「自主独立」と「自由民主主義」の思想を盛り込んで国歌とした。「ウクライナは滅びず」という気概の下に魂と命を賭けてロシアに挑もうとしているのである。その強い意思がいまロシア軍と戦っているのである。

 

 

左は開戦前夜の東部ドンバス地域の地図である。今になって、なぜ開戦前の地図を掲載するんだと訝しく思う方もあると思うが、再掲したのには理由があるのである。

 

 次に引用するのは二月二一日付の産経新聞の記事である。二二日に、「ルガンシク人民共和国(自称)」と「ドネツク人民共和国(自称)」を、プーチンはロシア政府として独立国として正式に承認するのである。記事は、モスクワ発で、二一日時点で書かれたものである。翌二二日の独立承認については何にも書かれていないから。

 「ロシアの侵攻が懸念されるウクライナ情勢をめぐり、同国東部を実効支配する親露派武装勢力とロシアは二〇日までに、ウクライナ軍の砲撃が支配地域や露南部に着弾したと主張、住民の避難が続いた。一方のウクライナは親露派の攻撃で兵士六人が死傷したとし、『新露派は偽情報でロシアを軍事介入させようとしている』と非難。事態は緊迫の度を増している。

 タス通信によると、ウクライナに接するベラルーシ南部などで合同軍事演習『同盟の決意2022』を実施してきたロシアとベラルーシは20日、ウクライナ情勢の悪化を理由に、部隊の『点検』続けると決定。露部隊がベラルーシに残留するとみられる。

 合同演習は20日までの予定で、ロシアは当初、演習完了後に派遣部隊を国内に帰還させると説明。米欧側は、ロシアが演習後もウクライナ侵攻に備えて部隊をベラルーシに残留させる恐れがあると警戒していた。

 フランスのマクロン大統領は同日(20日)、プーチン大統領と電話会談。情勢悪化への懸念を伝えた模様だ。

 タス通信によると、ウクライナ東部の親露派武装勢力『ドネツク人民共和国』と『ルガンシク人民共和国』(ともに自称)は同日、ウクライナ軍に民間人2人が殺害されたとも主張した。

 またロシアは同日、親露派支配地域から避難住民4万人以上が露南部ロストフ州に到着したと発表。露治安機関『連邦保安局』(FSB)は19日、ウクライナ軍の砲弾2発がロストフ州に着弾したと主張した。

 一方ウクライナは19日、親露派の砲撃で兵士2人が死亡し、4人が負傷したと発表した。ウクライナ軍高官は声明で、親露派への攻撃を否定し、『親露派と露諜報機関がロシアを軍事介入させるために情報工作をしている』と述べた。

 ウクライナのゼレンスキー大統領も同日、『ミュンヘン安全保障会議』の席上、親露派の主張を『完全な噓だ』と指摘した。

 ウクライナ東部では同国の親露派政権が崩壊した2014年の政変を機に、ロシアを後ろ盾とする新露派勢力が蜂起。ウクライナ軍との戦闘でこれまでに双方で約1万4千人が死亡した。米欧側は、ロシアが新露派支配地域に住む自国民保護の名目で、ウクライナに侵攻する恐れがあるとみて警戒している」(以上)

 

 ここにはロシア軍のキーウ攻略の危機が迫っているとか、そんなことは何にも書かれていない。しかし、実際は二四日早朝、ロシア軍は北からウクライナに侵攻したのである。その日の内に、キーウの北一五㎞の位置にあるキーウ首都空港を空挺部隊と特殊戦術部隊約三千人が占拠したのである。わたしはメディアがそのことを予想できていなかったことを指摘したいのではない。

 わたしが驚いたのは、翌二五日、ウクライナ軍が同空港の滑走路をボコボコに攻撃したことである。これで、自動小銃しか持たないロシア軍の空挺部隊と特殊部隊は孤立させられた。空路からの補給が完全に断たれたから。

 同じく二五日には、ベラルーシからキーウに向かう幹線道路の一部と水門を破壊して道路を水没させたことである。隣接する村は水没したが、これで、戦車や装甲車、補給のトラック等がキーウへの回り道を探さなければならなくなった。そこをウクライナ軍は対戦車ミサイルジャベリンで狙い撃ちにしたのである。

 あの時、ロシア軍がウクライナに向けて侵攻した二四日の時点で、日本のメディアもそうだが、欧米のメディアもみんなキーウは四、五日で陥落すると予想していた。アメリカの軍事筋でもそう報道していた。TVには六〇㎞の渋滞を見せるロシア軍の車両の映像が数日映し出されていた。あの時、ロシア軍は首都キーウへ迂回路を探していたのである。だから、あの六〇㎞もの渋滞を作っていたのである。そこをウクライナ軍はジャベリンで狙い撃ちしていた。

 このウクライナ軍の待ち伏せ作戦を誰も予想できていなかったことが驚きであると言いたいがために、産経の古い記事を今になって引用したのである。

 このあと、ロシア軍は首都キーウを目の前にして、約一ヶ月間も足止めを喰らって、結局四月初めに退却した。この事実が驚きなのである。ロシア軍の北からの侵攻を読んで、素早い対抗措置を実行していった参謀たちの慧眼に畏れ入っているのである。大方の予想を完全に裏切って、ロシア軍を押し返したウクライナ軍の勇気と決断にただただ驚いているのである。

 ユーチューブでウクライナの国歌を聞いてみるといい。地平線のかなたまで広がる小麦畑の上に青い空が広がる映像がかならず出てくる。紺碧の空にふわふわの雲があって、金色に輝く小麦畑の黄色でウクライナの風景は二分割されている。青い空と小麦畑、それはそのままウクライナの国旗を象徴している。