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人類の初期社会は狩猟小集団だった!!!

 人類初期の時代、その社会はどのようなものだったかをロバート・アードレイ(Robert Ardrey)が描いている。それは…

1. なわばりを持った小集団の狩猟バンドであった。

2. 狩猟バンドは男性のみの11人前後で構成されていた。(11人のルール)

3. 女性は家で育児に従事し、狩猟には参加しなかった。

4. 言語の発生は、狩猟に従事する中で生れたのではなく、原始社会の二極性と物語りの中から生れた。

以上のような推定をアードレイが『社会契約』(1970)の第9章4節で述べているので紹介する。

   

     

 埃をかぶった瞬間のように1年が過ぎ、数長く引き伸ばされた日々のように千年が、そして百万年さえ中断することなく続く雨期と乾期、広がる森林と侵食する砂との緩やかな繰り返しを重ねて、われわれの時は過ぎていった。神の非情を具えた自然淘汰が、いつか人間になろうとしていた生きものを時には鼓舞し、時には落胆させた。それは、ごく僅かな失敗と目立たない成功の時代だった。われわれは生きていた。生きるのに必要な呼吸はしていた。アメーバのような古い生物の法則に従ってベストを尽くした。子どもがいればゾウもそうするように、そこに子どもがいたから子どもを養った。ヒバリが朝を迎えるように、特に理由があるわけではないが朝を迎えた。仕方のないことだが、われわれは死ぬことも、しぶしぶした。それに感謝するいわれなどないが、イボイノシシも死ぬのだからわれわれも死んだ。われわれは山にも登った。なぜか。谷間で悲惨な暮らしもした。なぜか。ベストを尽くした。尽くそうとした。ライオンやサルやウガンダコブ、あるいはほっそりしたインパラと同じ法則に従った。

 これといった頭脳も、からだに目立った長所も持たぬ先祖のヒト科は自然の摂理に反抗することなく、それに身をゆだねた。先祖のヒト科は生き、死に、愛し、失い、立ち、ひざまずき、容赦なく戦い、無条件で妥協し、疑い、容認した。生存が彼らに課するぎりぎりの限界の中を何も知らぬ巡礼のように回った。先祖のヒト科がわれわれに残したものは彼らのプランには無かった。だが、彼らの古い足跡を振り返ってみると、われわれの1部になっているものは先祖のヒト科から受け継いだものだと認めざるを得ない。われわれが先を読むことができるのは、先祖のヒト科にそれが選択的価値として必要不可欠だったからである。われわれが自覚を持つのは、先祖のヒト科に漠然とした、かすかな我意の萌芽があったからである。われわれが話せるのは、言語の始まりが彼らのことばだったからである。しかし、彼らの手探りと始まりの状態を考えるだけでは充分でない。というのは、先祖のヒト科はその社会的集団を脊椎動物の世界にこれまでなかった、また今後もないような確実なものに完成させたからである。彼らの社会的集団の結びつきは強く、安定しているので、その性質は今もわれわれと共にある。

50人ぐらいの社会を養える狩猟バンドといえば、10人前後の男性成人と若者から成るグループと考えられる。現代の狩猟民族は25人ぐらいの小さな社会だが、彼らの武器は遠くから獲物を殺す事ができ、ハンターは他人の助けをほとんど必要としない。1万年以前、ヒト科の人びとの武器は、現在の四分の一程度の到達距離しかなかった。棍棒、握斧、投石が唯一決定的な役割を演じる武器であった。もちろん落とし穴をつくったり、わなを仕掛けたりもした。フランスのソリュート期の遺跡にはネアンデルタール人が崖から野生馬を1000年にもわたって追い落とした跡がある。崖の下には3万頭にも及ぶ化石化した馬の骨がたまっていた。しかし普通の狩りでは小人数のハンターで獲物を待ち伏せしたり包囲したりすることはできない。女や子どもを含めた多数のハンターを必要としたはずである。

 バンドそれ自体は全員男性であることは確かだった。狩りをするライオンの群れでは、ただでさえ不精で足の遅いオスはメスたちに狩りを任せる。通常はオスのほうが大きく、メスが小さい性的二型がハイエナでは反対になっていることを前に述べたが、メスはオスよりも大きく強いので、ハイエナの狩りにはオスもメスも参加する。従って同様のオス・メス混成の狩りは、他の主要な社会的ハンターであるオオカミやリカオンにも見られる。しかし不運にも、自然はヒト科という進化した霊長類をハンターに向くようには造らなかった。われわれは力やスピードやからだに備わった武器を欠くだけではない。すべての類人猿と同様、成長の早い子どもを持つこともない。だから、肉食の初めから多分、われわれの先祖の女性は自分の居場所を家に求めた。子どものライオンは1年足らずでおとなの手がほとんどかからぬまでに成長して独立する。前に述べたリカオンの子どもも6ヵ月で、獲物を追って行く群れに何とかついて走れる。しかしサル、チンパンジー、ゴリラ、ヒト科の子どもはこうした特権を母親任せにしているのである。

 われわれが進化しつつあった時代、女性が狩りをしなかったことと関係があるのではないか、とエードリアン・コートラントが思いついたのは、人間という種にほとんど普遍的といっていい非常に奇妙な行動の残存物である。それは「女投げ」である。女性は物を投げる時に、チンパンジーがやるように、腕を肩から下で動かす下手投げ(アンダースロー)で投げる。男がするような、肩越しに腕を動かす上手投げ(オーバースロー)は欲求不満か何かの時にやるぐらいだ。上手投げは何千世代もの長い間、腕を使う狩りによって完成された、男だけに遺伝する運動様式なのである。

 われわれヒト科の社会集団は結果として、機能分離を起こした。狩りに出掛ける大人と若者の男たちの狩猟バンドがあり、そして洞窟や居住地には女、赤ん坊、狩りに行くには幼すぎる少年、出産には幼すぎる少女たちが居残る家グループがあった。家グループの者たちは乏しい食用果実や植物を求めて近辺を探し回ったり、鳥や兎にわなを仕掛けたり、小鹿の1頭や2頭を捕まえたりする採集者であった。こうして男の世界があり、女の世界があり、そして責務があった。ほとんど200種もある現世霊長類の中で、離乳期を過ぎても誰かが誰かを養い食べさせるのは唯一、われわれだけである。狩りのできない者たちを養い食べさせるために、仕事の分業と狩りの義務とが肉食と共に生まれたのである。

 人間の狩猟社会で、大人の性が分かれたことが労働の分業の始まりを特徴付ける。リカオンではまだ子どもが小さいと、獲物をたらふく腹に詰め込んで家に戻り、それを吐き戻して子どもたちばかりか家に留まって子どもを守っている者にも分け与える。これは全くのところ分業の先駆けである。しかし家や子どもを守るのは母親とは限らない。メスでないこともある。いつでも交代しながら子どもの世話をやくのである。ヒト科の社会で初めて、社会全体に対する機能的な寄与に基づいた最初の社会的分業が始まった。それと同時に相互の独立と強制的な責任が生じた。狩猟バンドがその義務を忘れてサバンナの社交場から戻ってこなければ、その社会は遠からず消えてしまうだろう。自然淘汰は集団のレベルにも働き、生き残る条件として社会的責任を一番上に置いたのである。

 社会的義務はアフリカのサバンナで、人間の脳が大きくなるずっと以前に生まれた。狩猟バンドはバンド自身でなく、グループのために獲物を殺した。そして獲った肉を毎日のように、時には頻繁に居住地に持ち帰る必要から狩猟生活には別の制約が生まれた。獲物を殺したあと、サバンナにそのまま肉を放置しておくことは捕食者社会の他の競争相手に奪われてしまうことになる。そればかりか、どこにでもいて、何でも探し出すハゲタカにも負けることを意味した。それを回避するために、狩りの範囲を一定区域内に制限する必要があった。それは更にグループの大きさにも制限を加えることになった。そして狩りの範囲の制限は多分、真のヒト科の時代より、それ以前の時代のほうが小さかっただろう。ジョン・ネーピアはホモ・ハビリスの足の骨に関する研究で、人間の進化のこの時期に、われわれはうまく走れなかったばかりか、大またで歩くことさえできなかったという結論を出している。長距離を歩くことはわれわれに不向きだったし、できなかったのである。

 狩りをする霊長類に、一定の境界とその空間を独占的に利用するなわばりの原理を導入させたのは、われわれの狩りをする範囲の大きさにかかったこの制約であった。なわばりという現象は、周知のように植物食の霊長類に散発的に出現する。それが霊長類の行動目録の一つであることは確かだが、それが必ず現れるものでないことも確かである。遠くまで出向いて歩き回ることのできない社会的ハンターにとって、占有的に守られるべき狩りのなわばりは強制的であった。そうでなければヒト科のライバル関係にあるヒト科のバンドに獲物を盗まれてしまう。よく動き回るオオカミやライオンやハイエナでも狩りの空間を暗黙の内に分割しているのである。リカオンの群れだけは、獲物が怖れをなしてみんな他所へ逃げてしまうので、なわばりを持たず、自分たちのうわさが立つ前に常に新しい狩りの場所を求めて移動し続けなければならない。

 われわれは、リカオンほど恐れられることはなかった。だから解剖学的制約の進化の時代を遡るほど、われわれの狩りの範囲は狭く、占有空間を求める必要度は高かった。先祖のハンターたちの生活になわばり行動はどうしても必要なものだったと思われる。しかし同時に、狩猟社会のヒトの数が増えて、最良の狩り場の必要度が高まるまで、競争はそんなに激しくはなかったと推測される。われわれはなわばりの空間配置を多くの種と同様、相手を回避することによって実現した。確かに喧嘩も言い争いもしただろう。しかし面倒を起こしがちな隣人たちと喧嘩をするよりは、しないようにするのに苦労した。

 それは近くの狩猟バンドとのコミュニケーションよりは、むしろ協力を必要とした狩りの場での相互コミュニケーションである。狩りそのものが、まだ萌芽的だった会話の発達に役だったことだろう。われわれの競争相手だったライオンは、捕食社会の誰よりもうまい戦略的な狩りを発達させている。ライオンのメス・グループは獲物とその状態の品定めをし、川や沼地のような障害を利用して、まず一、二頭が注意を引き付けるように離れて行き、その間に他のメスたちは待ち伏せをするために隠れる。それから1頭が突然跳び上がり、隠れている殺し屋の許へ真っ直ぐに獲物を追い込むのである。ジョージ・シャラーはその観察から描いた何枚かのスケッチを私に見せてくれたが、それらはアメリカンフットボール以外の何ものでもない。だがライオンはタイミングを間違えてしばしば失敗することがある。仲間は互いに隠れて見えないので、1頭が跳び上がって獲物を追い込む時、待ち伏せ役のいない方向へ場所を間違えて追い込んむことがあるのである。

 音声信号と警戒の能力は、ヒト科のどの狩猟バンドにとっても選択的価値を持つものであったろう。しかし、狩りそのものが言語の揺りかごであったというのは疑わしい。ヒヒやアカゲザルの信号より幾らかましな信号でも、広いレパートリーがあったはずである。真の言語が生存価に役立つ場所は、狩猟バンドの社会的資産としての情報の蓄積と、若者の教育の中にあると思われる。

 動物社会では防衛の機能の次は教育の機能しかないことを第三章で論じた。動物の種によって子どもの成熟度は異なるが、成熟が遅ければそれだけ学習することも多くなるに違いない。そうでなければ遅い成長を選択したことは不利益でしかないだろう。そこでヒト科では教育に高い社会的価値が与えられていると考えられるのである。しかしヒト科は、狩りをする動物にしては決して強いほうではないという奇妙な一面を持っていた。巨大なオリックス・インデットの狩りに、幼い息子を連れて行ったりはしなかった。では、息子はどうやって狩りのことを学んだのだろうか。狩猟社会全体の孤立した状況についてもう一度考えてみよう。家というものは一つの明確な概念である。決まった広さの場所で、そこには骨が散らばっていたり、道具類の散乱する住居跡であったり、何らかの資産であったり、という具合にである。オルドヴァイの200万年前の地層でリーキ―たちは素朴な避難場所の土台とみられる長円形の石の構造物を見つけた。だが、私は疑問に思っている。そんな長円形の、間違いなく土台の構造物が幾つか1969年、南フランスのニースの港から数百メートルの所で見つかったからだ。決定的なことは、それは30万年前のもので、比較的最近まで、そのような遺跡は唯一ここだけしかないのである。リーキーの発見は、人類学の謎としておくほうがよいと思われる。オルドヴァイ峡谷に避難場所は必要でなかったのである。そして、そこには狩猟集団の移動の問題があった。

 住居跡の存在は1年を通じてそこに住んでいた事を意味しない。獲物が季節的に移動する時は一緒にそれについて移動したに違いない。なわばり自体も移っていったことだろう。それでも、その狩猟社会の野営したところがどこであっても、二つの観念が進化しつつあったわれわれの心に深く刻み込まれたに違いない。その一つは家という居住場所である。そこで女たちは赤ん坊を寝かせ、同い年の若者たちは仲間グループで狩りの真似事をして遊ぶ。獲物の肉を肩に背負った男たちは疲れきって戻ってくる。獲物が大きいか小さいかは時の運だが、殺した時の解体の仕方にもよる。家とはそういう所だった。それはジェスチャー遊びに似ていた。パントマイムの身振りだけで示されていた。そして、家はその第一幕であった。もう一つの観念は狩りの世界である。そこで演じられるのは、ヒトを威圧する脅威の木の茂み、不安に満ちた水場、進化しつつあった二本の足で挑戦する果てしないサバンナであった。狩猟バンドの場面では、男たちの行動は警戒態勢であり、獲物の発見であり、作戦を練るところであった。また生涯の戦友愛であり、暴力行為であり、夜明けから夕暮れまで続く危険の連続であった。私はヒト科の社会の二極性――機能の分離、体力の分離、行動や日常の仕事や目的の差異――が言語の揺りかごとなったことを指摘しているのである。物事は語られなければならない。あるハンターがけがをしたとか、ある子どもが病気になったとか、何も獲物を持たずに帰ってきたハンターは詫びながら逃がした獲物の大きかった事を話さなければならない。居住地の近くをうろつくヒョウがいれば女たちはその数をかぞえ、地図に描いて記述されなければならない。自分たちのグループを守るためにはそれが必要なのである。社会的地位やアルファにかかわらず誰にでも許される重要な動機は、狩りで大きな獲物を逃がさなかった時、聴衆の前で自慢したいハンターの気持ちだった。その日の英雄的行為の思いもよらない偶然性を細部にわたって正確に語り、何度も繰り返して語りたい欲求に駆られたのである。われわれは今もそうしている。このようにして、その日の狩りの経験は伝統に、伝承に、将来世代の知恵と強みに記憶されていった。それは、そのグループが選択した利益になった。息子や少年たちは耳を傾けて聞いていたのである。

 多分それを陳述するには、これは粗雑な方法かもしれない。しかし動物と人間の言語の違いは物語を語ることなのである。現代言語学の最前線にいる開拓者たちノーム・チョムスキー、エリック・レンネベルグ、トーマス・シービオクのような人たちは、子どもが急速にことばを学習するのは連合学習や強化説によって――言い換えれば、親を喜ばせようとか、親の不興を招かないようにしようとかする努力によっては完全に説明できないと考えている。多くの親たちもこれには同感だと思う。言語学習の生物学的基礎は文法の学習にある。生まれつき保持している何らかの型が、単語の学習だけでなく、適切な語順をも決めるために存在しているに違いないのである。私自身は、文法の始まりは物語を語ることの中にあると思っている。主題や予測の中に、また、人間の脳がまだ大きくなっていなかったずっと遠い昔に語られた物語、人間の脳の構成に寄与するずっと以前に語られた物語の中に文法の始まりがあるのだと見ている。動物の言語は、あるがままの状況を記述し規定する。警戒したり、警告したり、行動を起こすベルや嬉しい時のベルを鳴らしたり、欲しいものをねだったり、怖がったり、なだめたりという具合だ。一方、人間の言語は状況を呼び起こしたり、原因と結果を関連付けたり、先を予測したりする。それは、何かの筋を話すのである。また善悪の判断を示すものでもある。たとえごく萌芽的なレベルだとしても、このような言語能力の手段を操ることができたヒト科の狩猟バンドは、同じ捕食者の競争相手に対して勝つことができた。情報は単に蓄えられただけでなく、王制や商人の富のように、後の世代へ伝えることもできた。なぜなら前にも述べたように、少年たちは耳を傾けていたからである。そして徐々にではあるが、人間のコミュニケーションという光り輝く武器が造られ、聞き方が洗練されるのと相俟って、未熟で非力な若者たちを、バッファローの日やライオンの夜に備えさせることができたのである。

 今という時から、過ぎ去った時までの測り知れない海を遠く振り返って見れば、われわれがヒト科から相続したさまざまなものを、まるで死者たちの資産のように評価することはわれわれの能力を超えていることがわかる。どれに価値があり、どれに価値がないのか。どれが文明化した人間の未来に役立ち、どれが不適応でわれわれを傷つけるのか。確かに200万年の間、われわれは手にした武器にずっと頼ってきた。自然から何の武器も付与されていなかった地上性の霊長類が生き残るためには、この武器の発明がなければわれわれは存在し得なかった。しかし、われわれの存在を可能にしたこの文化的な発明との相性から、武器が怪しげな遺産になったことはよく知られている。だが、同じ想像もできないような時間を通して、われわれは協力と社会的義務と集団に対する個人の責任を、他の霊長類が到達し得なかったレベルにまで完成させたのである。

 初期のヒト科は、脳に90億の神経細胞に回路をつくり、われわれが性向と呼ぶ一種の様式を完成させて将来の大きな脳への道を開いた。こうして文法という、物語を語る様式の生物学的基礎が整った。そして武器が人間の歴史に深い影を落としたように、ことばは人間の歴史に光を当てることになったのである。

 男だけから成る狩猟バンドの性質が新しい脳に与えた影響は直接的には小さい。ここでいう狩猟バンドとは9人か10人、もしくは11人の屈強の大人と若者が協力してつくるグループである。もっと小さなグループもあったに違いないが、協力して行う狩りには向いていない。また、グループがもっと大きくなれば、きまった狩りのなわばりで養うにしては、余りに多くの者を抱え込むことになる。ヒト科の時代が始まった頃のアフリカのサバンナはコートラントのことばを借りれば、肉屋の楽園だったに違いない。われわれは狩りに熟達していなかったので獲物の動物は、ただ恐怖を味わうだけだった。獲物に接近できる逃走距離は短く、従って追跡するのに問題はなかったに違いない。しかし、ホモ・ハビリスよりずっと以前のその時代、われわれの足はまだ適応がわるく、二足歩行の姿勢もとれず、慣れない手に素朴な武器を握っただけだったことを思えば、狩られる獲物もうぶなら、狩りをする側もうぶだった。それと同様に、傷を負った動物は死にもの狂いになる。その時代のわれわれが逃げ延びる力も実にひどいものだったに違いない。

 狩りが危険な取引以外の何物でもなかった肉食のヒト科の歴史を再現する時間はない。狩りの技術と解剖学的な適応が進化し、サバンナの中でわれわれの評判が更にわるくなるにつれて、獲物の用心深さと防衛能力も進化した。われわれがうまくいったのは、獲物も競争相手の捕食者も太刀打ちできない霊長類生来の機知のおかげだった。もしスペリオル湖のロイヤル島のオオカミに、ヘラジカを値踏みすることができるとすれば、とにかく集まって尾を振りながら鼻付き合せて円陣を組み、相談する。そして、このヘラジカはいささか手に負えない相手と決まれば狩りを断念することになる。これなら確かに、相談して決定する能力というものはたいしたものである。だが、弱い捕食者だったわれわれの機知は、そんな立派なものではなかった。

 われわれが互いに相手の事を知っている知識は、たとえば狩り場なら、側面にいるあの仲間は力はあるが少しばかだとか、目の前にいるヌーがどの方向へ逃げるかを誰よりも一番よく知っているリーダーの決定なら従うとかいった評価である。また、あの若者は経験は浅いが、あんな勇気のいることをやった奴だと賞賛したり、あるいは、静かに狭めてゆくこの包囲網なら、どんな動物も絶対に逃げられないと確信したりするのもそうだ。これらの知識を信じることでわれわれは生き、また死にもしたのである。だから、われわれの小さなグループの社会的全体性は生存の確実性そのものだった。

 ばかげた事かもしれないが、現代生活の中にも数の比率に関して無視できないことがある。米国の陪審員制度では11人の陪審員と1人の陪審長を選ぶ。軍隊の分隊という単位は伝統的に11人の兵士と1人の分隊長から成る。政府の省庁の数は多くなっても9か10ぐらいで、11以上になることはめったにない。同様にサッカーやホッケーのようなコンタクトスポーツの守備は1チームが9人以下や11人以上になることは稀だ。ソ連共産党中央委員会の政治局員は11人である。イエス・キリストが弟子の12使徒を選んだ時、イエスは1人多く選び過ぎたこと(イエスを裏切ったユダのことを指す)が、いかにも暗示的に思われるのだが、どうだろうか。

 これは狩猟時代の過去から人間の男に受け継がれた社会的性向なのであろうか。それとも、こじつけに過ぎないのか。とすれば単なる偶然なのか。偶然にしては合いすぎる。ひょっとして、11という数は男性の性向に関して、何らかの進化のルールを示しているのではないだろうか。ちょうど不吉な13の数字が赤く点滅する警告を意味するように。確実に言えることは、信頼と相互理解という男性の性向に関して、大きな脳を持つようになった男性は、小さな脳を持っていたその先祖と同じ数の小グループを持ち続けているということだろう。そうしなければ心が落ち着かないということの反映なのである。この傾向は、男性の上手投げの運動機構が数百万年前の狩猟時代から変わっていないのと同様、遺伝と考えられるだろう。遺伝でなければ、300万年以上も前のエチオピアの河床で発見された小さなアフリカヌスの時代から、脳容量は三倍にもなったのに、われわれは技術も社会もほとんど進歩しなかったという極端な解釈になってしまう。

 ライオネル・タイガーは『集団の中の人間』で、どのカクテルパーティーにもみられる、男性が他の男性と一緒に飲む好みから、男性の絆というものを適切に重視している。タイガーは男性の絆を人間社会の背骨のように見て、その進化の起源に注目している。その本は1969年の出版だから、もう少し遅ければ狩猟バンドの性向もその一つとして本の中に含まれていたかもしれない。オスだけのグループはどの動物にも共通して存在するが、それが社会機能や重要な組織として役立つことは余りない。オスのグループはサバンナで獲物を獲っていた特殊な霊長類――われわれ自身なのだが――が、ばらばらに孤立していたオスの伝統を利用して、彼らを小さなグループにまとめた進化の方法であった。その小さなグループの力は強く、現在のわれわれの中にも残っているのである。

 

 現代工業の経営者もマグレガーがそのY理論で示したように、労働者たちがつくる小グループの効率や協調や感情的満足度をよく考えて対処するだろう。こうして、われわれの自己確認と刺激と安全に対する生得的欲求は数百万年にわたって満足させられてきた。若者の非行グループが犯す略奪に注目する社会科学者も同じことを考える。都市計画立案者や建築家は都市の荒廃に直面して、この11人のルールに、その数が有効か否かは別にしても、何らかの啓発か閃きを受けることに一縷の望みを託して、注目するかもしれない。刑務所や精神科病棟の管理者なら、11人のルールに、より直接的な価値のヒントを見つけるかもしれない。教育者なら「実に面白い。で、次はどうすればよいかだ」と、ため息を漏らす。ホステスなら、蛇足ながら、心に留めておくがよい。男というものは同性愛以外の理由でも、男を楽しむものだということを。

 このように男の小グループは、脳の新皮質の拡大にもかかわらず、人間の現代生活にも満足の要因を残している。しかし、われわれは、狩猟バンドが暴力行為の場で自然淘汰によってつくられ、完成されたことを心に留めておかなければならない。

隕石落下

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 脳は何故大きくなったのか。これに関しては途方もない推測があるにはあるが、それを公表までして敢えて自分の評判を落とす者はいないようだ。だが、この話はよく出来ているので、話さないのは読者に対して犯罪行為になる。それに私の評判と言えば、季節が来ればブナの木が葉を落とすように、いずれ落ちるのは目に見えているのだから、それを「人間を宇宙的偶発事件」とみるアードレイ説として、ここに示そうと思う。しかし私はこのことばをそのまま信じているわけではない。
 七〇万年前、この地球は直径三〇〇メートルぐらいの天体によって物凄い衝撃を受けた。これは私の作り話ではない。その天体は恐らく小惑星で、地球の大気中に不明の経路から入って来たのだが、オーストラリアの西のどこかに衝突した。その時の高熱でガラス状になった断片は日本からマダガスカルまでの広い範囲に散らばって見つかっている。地質学者はそれをテクタイトと呼んでいるが、その散らばった範囲は、縦六千四百、横九千六百キロメートル、面積にしておよそ六千二百万平方キロに及んだ。その時、同時に地球の極は反転した。七〇万年前まで羅針盤は南を指していたはずだが、それ以後は北を指すようになったのである。
 地球の磁場の反転は地質学者が過去に遡って調べた限り、不規則な間隔で過去に何度か起こっている。それらの反転がどうして起こったかは判らない。反転が注目され出したのはここ数年前からのことだから、まだ究明が進んでいないのである。しかし、海底をドリルで掘削して得られた円筒形のコアの資料から、地球には約五千年の間、全く磁場のない時代のあったことがわかった。宇宙からやって来る宇宙線から地球を守るのはこの磁場なのである。
 磁場の研究が始まった頃の一九六三年、カナダの国防研究委員会のロバート・ウッフェン委員長が仮説を発表した。生命が宇宙線に曝される磁場反転の間は、突然変異が急激に多発する時代であり、新種が出現し、古い種は絶滅するというものである。多くの、そのような説明不能の時代が、進化の記録に存在する。たとえば、白亜紀末に多くの爬虫類が突然姿を消したことに満足のいく説明はこれまでなかった。中新世中期はヒト科の出現と一致するが、この時代は地球的な規模で、軟体動物やサンゴ虫のような長期間生き続けてきた動物にさえ影響を及ぼすような激しい種の変化があったのである。
 古代の磁場反転と生物学的変化との関係を解明するには、まだ時間が足りない。だが、コロンビア大学のラマント天文台のJ・D・ヘイズとN・D・アプダイクが率いる地質学者のグループは、独自の着想を持っていた。彼らの専門は海の底に降り積もった放散虫という顕微鏡的な生物遺骸の研究だった。南極の深海底から採取したコア資料には過去五百万年の生物学的記録が含まれていた。その中に放散虫を標識層とする四つの異なる動物層が地球磁場の反転と一致した。七〇万年前の最後の反転以後は現世種がほとんどを占めていた。七〇万年前という目印は明瞭であった。
 磁場反転の仮説に対する物理学者側の反論も考慮する必要がある。反論の一つは、磁場の消失は宇宙線をそれほど劇的に増加させなかっただろうというもので、また別の反論によれば、宇宙線は突然変異率に影響を及ぼすほどのものではなかったというのである。地球磁場の保護域を越えた宇宙空間で活躍する最近の宇宙飛行士を見れば、物理学者の言い分のほうが正しいように見えるが、宇宙飛行士にしてもまだ数は少なく、しかも宇宙空間に五千年間も滞在したわけではない。だから宇宙線問題はアードレイ説にとって、まだ決定的な反論ではない。
 ベリコフスキーの『衝突する世界』がちらと頭をかすめるが、七〇万年前に起こったことは、疑いなくわが地球の衝突、それも重大な出来事だったのである。その時、磁場の反転が起こったのは、確率は圧倒的に小さいとしても偶然の一致だったのかもしれない。議論の余地がないのは衝突それ自体と、その時発生した熱である。
 これと比較しうる事件で過去に記録が残っているのは一九〇八年のある朝、シベリアのトゥングースカの森林地帯に落ちた隕石である。その隕石の大きさは多分、浴室の一つか二つ分だったろう。これもまた地球の大気中に破砕片をばら撒き、直径四〇キロメートルの地域にわたって森を焼いた。周辺にいたトナカイも死んだ。この時、放出されたエネルギーは一八八三年のクラカトア島噴火と同じぐらいだったと推定されている。破壊されたシベリアの森全体に同様の小さなタクタイトが見つかった。ラマント・グループのグラスとヒーゼンは七〇万年前に地球を訪れた小惑星は二億五千万トンの重さがあり、その破砕片は四〇キロメートル四方のシベリアの森どころでなく、実に四千万平方キロに及ぶ地球表面に散らばったと計算した。
 核戦争の結果を予測するのは、考えられないことを考えるに等しいといわれるが、インド洋上のどこかで起こった大激変は、まさに考えられないことが起こったのである。シベリアの天災で放出されたエネルギーがカラカトアの噴火と比較されるのなら、二億五千万トンの怪物が衝突した際に放出されたエネルギーは一体、どんなものだったのか。そんな劫火の試練の結果がもたらした地球の温度上昇は一体、どんなものだったのだろうか。
 四半世紀ほど前、レ-モンド・カウルスは異常な温度が男性の生殖細胞に及ぼす影響を調べた。低温は一時的に精子形成を抑制する。突然の寒さで陰嚢が縮むのは、体温で精巣を暖めて保護しようとするのがその理由である。しかし、異常な高温は――ショウジョウバエ、スズメ、人間などで調べたのだが――精子に二重の影響を及ぼすことがわかった。高温は精子を減少させると同時に、精子の異型(変異体)を増やすのであった。ホールデンは『進化の原因』の中で、大抵の卵は熱で死ぬ傾向があるが、生き残った卵も高い突然変異率を引き起こすと述べている。オスの精子の異型急増と、メスの卵の突然変異過多、つまり放射線の影響を無視しても、これが七〇万年前、小惑星による劫火の日の結果だったのではないだろうか。
 人間の脳は偶然の出来事だったのだろうか。新興勢力として台頭して来たヒト科に、そんな大きな変化が起きたのであれば、他の動物にも何らかの過激な変化があってもよさそうである。だが、南極の海の放散虫に起きたラマント・グループの記録を除けば、その時同時に起こった地球規模の観察はない。ところがケニアに、ずっと気に懸かっていた問題があったのである。地球磁場の反転とほぼ同じ時代に突然、多くの動物種を巨大化現象が襲ったという事実である。ナイロビのコリンドン博物館に行くと、キリンの脚部の大きな化石に驚かされる。その化石から想像すると、現代のキリンはダチョウぐらいの大きさになる。また、そこには当時のダチョウの化石もあり、それを見ると現代のダチョウもコウノトリぐらいに小さく見える。ブラルカス・アロクという巨大な牛は巨大な角を広げているが、まるでハイウェイの二車線を見るようで、現代の牛と比較していつまでも見飽きる事がない。ペロロビス・オルドヴァイエンシスというヒツジは、広げた角の幅がメリノ羊の四倍もある。このヒツジはオルドヴァイ遺跡のBKⅡ層から出土したもので、時代もヒト科と同時代である。時間があれば、その時代のゾウの牙として分類されていた化石を見学するとよい。なんと、それは絶滅したイボイノシシの牙だったことが、後になって判ったのである。
 これらの巨大化石はすべて、長い人類進化の舞台であった東アフリカから出土したものである。一九五七年リーキーが初めてこれらの奇怪な動物コレクションを見せてくれて以来、ずっと私は東アフリカの何か地域的な状況、たとえば火山活動のようなことが急激な仕方で、そのような突然の巨大化現象を引き起こしたのではないか、という考えを抱えていた。そして、人間の脳の拡大化もその一つではないか、と。しかし、うまい説明は見つかりそうになかった。火山を考えて見ても、東アフリカではわれわれの先祖がそのあたりにいた時代、ずっと定期的な噴火を繰り返していた。ところが今、少しばかり突飛な説明ではあるが、その説明がつくかもしれない。それは東アフリカである。そこはインド洋に近く、例の天から降って来た大天災の場所にも近い。海抜が高いことは熱に対する大気の防壁にも弱いに違いない。そして東アフリカから出発したホモ・サピエンスは、ヨーロッパや他の地域で変容を受けた機会があったとしても、最古のハンガリー人だったベルテスチェルレス人は、やはり紛れもないアフリカ型の武器を持っていた。また、それより少し後にたどり着いた最古のイギリス人だったスワンスコム人もそうであった。
 人間の脳の拡大と小惑星の衝突との関係は余りに複雑なので、可能な証拠でそれを証明する事は難しい。まだ脳の小さかったヒト科最後の人と、大きな脳を持ったヒト科最初の人との中間に、その小惑星の落下がなければならないが、その時がいつかは見当もつかない。われわれ人間は偶然の結果なのか。もっと納得のいく説明はないのだろうか。
 人間の脳については、これまで機能的説明が多くの人を納得させてきたし、フォート・ターナン遺跡でラマピテクスの肉食の証拠を見るまでは、私もそれで納得していた。しかし何故、千五百万年の間、狩りがおこなわれたのか。よい脳を持つためには、協力する狩りをすることが理屈に合うのか。また、大きな脳が急に進化の速度を速めたのは何故だろうか。狩りをすることによって、よい脳を獲得するという選択的利益はあってもよい。でたらめに起こる突然変異を認めてもよい。そして変化が現れるまで待つのもよい。しかし、われわれが待ったのは、恐ろしいほどの長い時間だったのである。そして遂に大きな脳が出現した時、それは何故か突風のように現われ、空っぽのごみバケツ(脳)を持って、真夜中にガチャンガチャンとやかましい音を立てながら長い木の階段を(ぎこちない足取りで)下りていく者になろうとは・・・・。
 機能からこの問題を説明する事に私は幻滅を感じた。確かに、武器や道具を作るために、手と心の協力が必要なことは認められてよい。また、狩りの生活を続けることが、記憶を蓄える場所を広くし、中でも小さな脳しか持たなかったヒト科に出来なかったコミュニケーションのための中枢神経をつくるのに役だったことも認められてよい。だが大きな脳を持った時、何も起きなかったのでは機能の向上から見て理屈に合わない。つまり、人間に支配的立場をもたらしたこの大きな器官の出現が、われわれの生活様式に、オフィスでの公平な賃上げ要求程度のことにしか役立たなかったとすれば、この面目ない機能の論理は考え直さなければならない。
 突然変異によってそれまでの脳に付け加わったものが、われわれに優れた選択的価値を与えてくれたとすれば、その後五〇万年にもわたってそれらしい価値を何も見せないまま終わった事になる。つまり、大きな脳は、自然淘汰が個人に働きかけるまでは単に安物の資源だった。これが私の仮説である。ここでわれわれは進化について本末転倒の問題に直面する。つまりガソリンが発明されないうちに、われわれはロールスロイスを手に入れたのである。
 大きな脳は心からの贈り物として更新世からわれわれに手渡されたロールスロイスだった。それは確かに素晴らしいプレゼントである。その輝くばかりの外見や重厚な車内調度や装飾をわれわれは楽しんだ。それが動くかどうか、坐ってあれこれ押してみたりした。しかし個人という燃料が発明されるまでは、そのロールスロイスが何のためにあるかを理解したり、驚きを体験したりすることは出来ないままだった。
 何故大きな脳なのか。それは、優れた性質を持つ者は、その優れた性質の直接の働きにより、劣った先行者よりも多くの者を生き残らせる自然淘汰の理論には合わない。更新世の時代に大きな脳がわれわれに有利に働いた痕跡は残っていないのである。変化の価値が後代にならなければ判らない前適応という考え方がある。しかし、このように変化が非常に大きいと、進化の概念はアードレイの宇宙的偶然説のような、体系から逸れたものにならざるを得ない。だが、もっと定評のある進化の概念が、優れた遺伝学者スーアル・ライトから出されている。ライトは鮮新世にあったような遠く隔てられた交配集団は、それぞれの地域に適応した遺伝子プールを独自に発展させると考えた。そこで、もし環境に何らかの変化が起きて、長期間隔てられていたこれらの集団の間に交配が成立すれば、その結果、遺伝的に大きな変化が起きるだろう。このような状況は更新世になって、雨という環境の変化が人間集団に移動をもたらし、それまで長い間閉じ込められていた鮮新世の人間集団と接触する時が、まさに遺伝的に大きな変化の現われる時である。ライトの考え方からすれば、結果に何が起きてもよいのである。 賢明な賭けをしようと思うならライトに賭けるべきである。だが競馬に熱狂するように、当てずっぽうに賭けるならアードレイの宇宙的偶然説に賭けて、未知の遺伝子を持つ、素性の知れない相続人に期待するのがよい。それを信じるわけではないが、そういった所が、われわれの感覚にピッタリの表現である。       (つづく)

ヒトの脳の拡大化について

(R.アードレイ:社会契約(1970)より)

 

第十章 立ちあがったサル

 

 


 数百年の年がただ過ぎて行った。どの年も同じようで、それは河原の無数の石ころがどれも同じなのに似ていた。強い日差しに陽炎の揺らぐサバンナには、樹冠の平たい、棘の多い木が無数に点在するが、その上にも年はただ過ぎて行った。どの年も同じようなのは、まるでサバンナの木の一つ一つが同じようなのに似ていた。こうして数百万年が経った。
われわれ人間の初期に生きていたラマピテクス科のサルに二つの枝分かれが生じた。インドでは緩やかに流れていた川と熱帯雨林が消えた。素晴らしい東アフリカの高地では緑の草が緩やかな起伏の続く丘陵を彩り、豊かな森の回廊がその下の谷を埋めていたが、雨は時たまにしか降らなくなり、時には全く降らない事さえあった。それでもわれわれはその中で耐えながら生きていた。われわれの数千世代が過ぎても環境に変化はなかった。それほど変化は緩やかだったのである。こうして千数百万年がただ過ぎて行き、あの過酷な鮮新世になった。地上は乾ききってしまったが、誰もそれが何故かは知らなかった。エデンの園は去った。
 一列になってゆっくりと進む葬送者の行進のように時は過ぎて行った。人類の実験の中で、あのインドの分かれ枝は環境に敗れて消えて行った。おそらく――ただの推測に過ぎないが――彼らは肉食の道を進まなかったので、森や果実が無くなると生きて行けなくなったのではないか。真相は誰にも判らない。しかしアフリカの系統の分かれ枝は生き続けていた。だからこそ、それを知っているのであり、そうでなければわれわれもここにいないはずだ。われわれは草原とそこに住む豊富な獲物の群れを受け入れた。生来の捕食者の目から見れば、われわれは分不相応に、いや、滑稽にさえ見えただろうが、依然としてわれわれはいたし、生き残って渇水に耐えていた。
 現代人の心でそんな試練の時代を視覚化することはできない。ある小さなグループは塵と消え果てたが、別の小さなグループは挫けずに生き続けた。どこに違いがあったのか。それは社会秩序だと私は言いたい。われわれはアフリカの鮮新世にラマピテクスとして入った。わかっているのはその時、われわれは充分な二足歩行さえできなかったことだ。それから数百万年の後、われわれは解剖学的に進んだアウストラロピテクスに進化していたが、脳はまだ類人猿とほとんど変わらぬままだった。首から下は人間になっていた。しかし、われわれが生き残れたのが解剖学的改良のお陰だとは思えない。むしろ、われわれが一つにまとまって行動する社会的能力こそ生き残りの重要な要因だった。
 そんな時代の社会契約の中では、秩序は無秩序よりはるかに重要である。ジュリアン・ハックスリー卿はかつて人間を「野生の動物の中で最も変異に富むもの」としたが、それは正しい指摘だったと思う。しかしヒト科の動物にそんな遺伝的多様性は知られていない。交配はごく少数の近隣の社会との間に限られていたに違いない。変化のない環境の中で、果てしなく長い期間にわたって続いた小さな集団同士の同系交配は、個体変異を小さくしていっただろう。それでもランダムな変異は常に起こっただろうし、そのような変異が社会秩序の妨げとなっただろう。明日も今日と同じ過酷な環境が待ち構えている状況が、社会の中の変わり者や刷新者を淘汰の対象とした。弱い、精神的に劣る者は幼児殺しで除去された。ヒト科には、そういう者を受け入れるだけの余裕はなかったからである。それを拒む者がいれば、仲間はずれにして死に追いやった。
 生存をかけて闘う戦時の国家は社会契約を強化し、個人には個別の欲求を捨てさせ、一つのまとまった国家として生きようとするだろう。鮮新世の全時代を通じてヒト科の社会は生存をかけて闘う生物学的小国家だった。だから、個人の質ではなく集団の質が生存のための基準だった。協力、服従、信頼、予言力などが集団の存続を促進させる、価値ある個人の資質だった。要するに、淘汰は平凡な資質のために働いたわけである。
 ヒト科の系統が長い時間をかけて、生き残る以外は何もできなかったことを説明するのに、これ以外にうまい説明は見つからない。
社会秩序に対するわれわれの不可欠の要請は、個人的主張を認めるような無秩序は排除する事だった。こうして、ついに鮮新世が終わりを告げ、更新世の雨が到来した時、オルドヴァイ峡谷の最低層にホモ・ハビリスが出現する。ハビリスはその時、確かに石器と武器を手にしていた。だが、フォート・ターナン以来、一二五〇万年が経過していたのに、生活様式は他の点でそれほど異なっているようには見えなかった。それからもっと不可解なことが起こった。
 何故、人間の大きな脳が突然に出現したのか。また、その出現が人間の生活に影響を及ぼした跡をほとんど留めていないのは何故か。オルドヴァイの先史学に名を留めた最初のハビリスよりずっと後の時代でリーキーは、ほんの少し小さな脳を持つ別のハビリスを発見した。それは一〇〇万年前のものだった。だが三五万年前には今のわれわれより大きな脳を持つハンガリーの人類の陥没した頭骨が発見されている。それ以前の五〇万年間には何も起こらなかったのに、その五〇万年を少し超えた時代に何が起きたのだろうか。そして、大きな脳という、この素晴らしくも新たな器官の出現が人間の進路に小さな変化でしかなかったのは何故だろうか。
 われわれは今や真の人間であった。六五〇CCの脳を持つハビリスの武器より、幾らかましな武器を一四〇〇CCの脳が作った。だがハビリスの武器はうまくできていた。われわれが火を使うことを知ったのはヨーロッパとアジアの中であり、アフリカにいた長い間には知らなかった。われわれは多分、互いに殺し合い、同じ人間の狩りをした。時代が進むにつれ、ネアンデルタール人の埋葬地には儀礼をおこなった証拠品が増えている。もし、脳が五〇万年前までに大きさの限界に達していたならば、その大きな脳が何らかの奇跡を生むまでの時間は実に長かった。
 ここで一つの仮説を提唱したい。それは、弓とやが発明されるまで、協力的な狩猟集団(バンド)に管理された社会秩序から個人は自由ではなかった。人間の歴史の中で個人を可能にしたのは長距離用武器である、というものである。服従という古人類の牢獄は打ち破られた。立ちあがったサルが登場したのである。
 弓と矢のことはよくわかっていない。おそらく武器は道具の一つに過ぎないという人類学の考え方が、その重要性を曖昧なものにしているのである。そのよい例が数年前のシカゴで開催された大きなシンポジウムである。それは「人間、狩りをする者」というテーマで開かれたものだが、人間の歴史に長距離用武器の登場がどんな意味を持つかについての論文も討論も、それへの言及も一切なかった。
 ここに示す証拠は友人のケニス・オークリーと、他に類書を見ない彼の研究著作『道具製作者としての人間』と『化石人類の年代決定の基礎』に負うところが大きい。弓と矢は北アフリカのアトラス山脈あたりで発明された。当時、サハラ砂漠は今のアフリカのサバンナのように動物の狩猟に向いていた時代である。今は砂漠と化したこの緑の狩りの楽園は、およそ二万五千年か三万年前のことで、そこには後期旧石器時代のアテ-ル文化という文化を生んだネアンデルタール人たちがまだ生きていた。
 地中海を隔てただけのヨーロッパは当時、楽園というにはほど遠かった。というのは、その地域は更新世最後のヴュルム氷河期の中にあり、厚い氷に覆われていたからである。そこでは、われわれ現生人類に近い人びとが至る所でネアンデルタール人と入れ替わっていた。彼らの中には実に、人類最初の芸術とも言える、あのマグダレーナ期の作品を準備するかのように、洞窟の壁面に絵を描いたり、刻んだりする者も現れ始めていた。そして反対側の緑に覆われたサハラでは、ネアンデルタール人としては最後の人びとがこの地上へ遺産を用意しようとしていた。その遺産とは、遠くから人を死に至らしめる武器であった。
 この武器の発明は簡単なものだった。それまで誰も、尖った剥片石器の根元に出っ張りを作って、それを棒の柄の部分にしっかりと結びつける工夫をした者はいなかった。アテール文化を研究したフランス人はそれを「ピエス・ペダンキレ」(有柄の小片)と呼ぶ。英語では普通「タングド」(出っ張り)と呼ばれ、その外見はアメリカインディアンでお馴染みの鏃(やじり)に似ている。中には大型で、矢柄(やがら)に結び付けると、これまでのどの剥片石器よりも威力のある投げ槍になるものもあった。しかし多くの石片は小型で、矢の先端にのみ用いることができた。
 これらのネアンデルタール人ハンターたちがどれほど広がっていたかは判らないが、スペインの研究者はバレンシアに近いパルパリョの遺跡から、出っ張りのある尖頭石鏃(せきぞく)を発掘している。後になってスペインでは、この弓と矢が洞窟の壁面画にその最初の姿を現わした。その頃までにネアンデルタール人は全くわれわれの理解をこえた理由から、おそらく絶滅したのだが、彼らの遺産である弓と矢は残った。壁画に残された絵は通常、男が獲物を追っている所が描かれている。だが、カステリョンの洞窟に描かれたものの中には男たちが激しく戦っているものもある。
 オークリーの見解では、この弓と矢はヴュルム氷河期の氷床が後退するまでに、それほど広がることはなかったし、槍に変わることもなかったという。氷床の後退は今から一万一千年前頃突然始まった。次の千年の間にわれわれ人間は中東で食糧を栽培し始めた。現生人類の歩みが始まったのである。
 先史時代の人にとって、弓と矢の発明は、現代人と核兵器の発明に匹敵するほどの意味を持っていた。そのことによって、われわれを取り巻く環境との関係は修復不能になった。大きな脳を持つようになっても、われわれは多くの動物の中で、一つの種としてその時代まで生きてきた。われわれは抜群の捕食者であり、卓越した機知と社会的能力とコミュニケーションを持ち、情報を伝統によって蓄える能力においても優れていた。しかし、われわれの狩りの方法はオオカミやライオンのそれとは少し違っていた。武器は生来の捕食者が持つ牙や爪の代わりを果たした。食われる動物がわれわれを怖れていたとは思えないし、ライオンやオオカミのような捕食者がわれわれを怖れるのも不合理な話である。しかし、弓と矢と投げ槍で遠くからでも殺すことができるようになった時、動物界に起きたこの新事実は人間を初めて別格の者とした。われわれは動物の目に不思議な存在として映り、動物の記憶には恐怖の存在として焼き付いた。今までとは違う新しい世界になったのである。
 それは人間にとっても新しい世界だった。今やハンターは単独でも最小のリスクで獲物を仕留めることができた。やがて人間はピグミーやブッシュマンがやるように、矢の先に毒を付けたものを用いるようになったのだろう。狩猟のために集団を組むことはもはや必要なことではなくなった。だから現在でも狩猟民で過去のバンド(狩猟集団)に頼る者は少ない。グループは小人数で構成される。コリン・ターンブルはコンゴのイトゥーリの森に住み、二つの狩猟伝統に従って生きているムブティピグミーのことを書いている。小さいグループには毒の付いた矢を持つ射手が二人か三人いる。そして、大きなグループに属して網を使うハンターたちは一つの網を何人かで巧みに使い、両グループは一緒にうまくやっていかなければならない。彼らの方法は古い時代のやり方だが、今では珍しくなってしまった。
 弓と矢の出現と共に、人間の可能性として個人が誕生したのだと提案したい。われわれの家族もまた、おそらく存在するようになった。というのは、狩猟バンドの時代から、仮にも家族が存在したのなら、社会単位としての家族の意義はずっと低いものでしかなかったからである。しかし今や、一人か二人の男が集団の助けなしで妻と子どもたちを養えるようになった。そして、われわれが依然として社会の中で生きる以上、全く新しい契約が生まれることになった。そうなると長い間、変わり者を排除してきた自然淘汰は、今や多様性を助長し、順応や平凡以外に価値を求め、契約の中に無秩序を取り込んだ社会集団を選択することができるようになったのである。
 狩猟と農耕革命との関係については明らかでない。しかし農耕を発明した人は新機軸を取り入れる才能のある、新しい種類の人類だったに違いない。そう考えると、これまでうまくつながらなかった不思議な一致点の問題も説明がつく。それは食糧の栽培が何故、長い時代を待たされた後、中東と東南アジアとアメリカという異なる地域で、しかもほとんど同時に起こったのかという問題である。それはわれわれの知る限り、弓と矢がそれらの地域で農耕に先行して存在していたからにほかならない。
 ここまでの所は思索を要しない。明白なことは、われわれが手にした限られた武器で、協力して狩猟を続ける限り、小さな脳より大きな脳のほうが少しは価値があったということである。秩序がすべてであり、最高の淘汰基準に従わせる力であった。だが、個人と、新しい社会契約の誕生と共に、脳は秩序の社会的連鎖から解放された。人間性が爆発した。
 脳が何十万年も前に爆発したのは何故か。もちろん、これはまた別の問題である。   (つづく)