「アナと雪の女王」に愛はあったのか~宇宙戦艦ヤマトじゃねぇーぞ・編 | 白帯以前素人による「なんちゃってテコン島」

白帯以前素人による「なんちゃってテコン島」

独習しているテコンドーや子育てその他感じた事等駄弁を色々書きます。

 ヘローです。


 台風一過で暑くなってます。体調もすこぶるバッドで


参ってます。


 が、何とか週三日トレーニングは欠かさず、


そろそろ基本蹴りから飛び蹴りの練習を始めようかとも


思っている今日この頃。


 ま、そんな事は置いといて。



 先日観てきました。「アナと雪の女王」。



 子供に請われて。


小学生の娘、中学生の息子、


二人とも「クラス全員観てるんだよ」という。


 ほんまかいな、と思いつつ、


結局が薬局(死語)、家族で行ってきた、と。



 で、結論なんですが。


2Dしか観ていないんですがね、映像が素晴らしかったですね。


ストーリーの強引過ぎは、まあ子供向けだから


しょうがないとして、でもね、



世間でいうほど「素晴らしい映画」にはとても感じなかった、と。



 引っかかったのは、この映画の最大テーマである、「愛」。


この映画でいう「愛」とは、


「相手の為に自分を犠牲にすること」、という事らしいですがね。



 あっしは思わず、「それ間違ってますから」と心の中で


突っ込みをいれてしまった、と。



だってね、



 「誰かの為に~」というフレーズは、それ自体、


とてつもなく古臭く、かつ、19世紀から20世紀の戦争の時代に


よく使われたプロパガンダじゃないですか。



 それを「正当化」するために「愛」を絡めるのも、


世間でいう名画、凡作を含めて幾多の映画で


語られてきた歴史もまたある。


 


 と、こんな事を申し上げるとですね、


「オマエ、アナと雪の女王から戦争プロパガンダを引き出すのは、


無理ありすぎるだろ、このトンデモクレーマーが!」


とおしゃっる方も多いとは思いますがね、


  

「無理ありすぎ」もなにも、「愛を間違って使っている」点において、


あっしの意見には一理あるんでゲスとしか


言いようがアリマ千円(死語)です。



よく考えてみてくだされ。



  「愛する者の為に自分を犠牲にする」というフレーズが、


人間の歴史において、一体全体どんな場面で


一番使われてきたか。



 それは、「けっして平和じゃない場面」でしょうが。


そしてそこから想像される「一番平和じゃない場面」とは、


ズバリ「戦争」でしょう。



 だからね、あっしは、「アナと雪の女王」を観た後に、


なんだか、「宇宙戦艦ヤマト」を思い出しちゃったわけ。



具体的にいうと、映画二作目の、「さらば宇宙戦艦ヤマト」ね。


 あれも「自己犠牲の愛」がテーマでしたね。


 愛する人の為に自己を犠牲にして死ぬ、みたいな。



 でもね、これ「愛=LOVE」じゃないですから。


現在日本で使われている「愛」は、「欧米ナイズの愛」でしょ。



 みなさん、薄々は判っていると思うけど、歴史的日本の文化内に


はLOVEという概念はないでしょ。


 日本語で「愛」というのは、つまり等しく男女の営みに


使われてきた言葉なんですよ。


 ある種の人たちに大人気で、最近「復活すべき」という、


「教育勅語」にも「愛」なんて概念はおまへんがな。



そいじゃね、ま、日本に元々「愛=LOVE」はないのはいいとして、


でも今は欧米ナイズして、「愛=LOVE」が根付いているんだから


堅苦しい事はいうな、というな、というご意見もでましょうが、


そこなんですよ、そこ。根付いているからこそ、



 ここからが「問題」になるんですわ。


 どうせ根付くなら、「正しく根付いて」欲しいと、


あっしは思うわけ。取りあえず、簡単に理解するために


洋楽とか、洋書なんかに


たまに見るフレーズ引用しますが、


LOVEっちゅうのは、


「I don't like you,but I love you.」のLOVEですわ。



「ボクは君の事は好きじゃないけど、愛している」。



 日本語的にはなんじゃそれ、なんですが、


LOVEという言葉的には、全然OKなんですよ、これ。


どうしてかっていうと、このLOVEは、キリスト教の思想から


出ているんですよ。


つまり人っちゅうのは、

「相手を好きじゃなくても愛することができる」


という思想なんですわ。


 これが本当の「愛」なんですよ。


ええ? よくわからないって? それなら、


もっと簡単に突っ込んでいうと、


「愛とは許す、許しきる」という事なんざます。



 「相手の事を好きにならなくても許すことができる」


これが「愛」なんですよ。


ま、するとですね、



 え? でもアメリカってキリスト教文化圏じゃないの?


なんで、「アナ雪」で語られる「愛」が「自己犠牲」なの?


 そうなんですよね、あっしも鑑賞後にそこが


またまた引っかかりました。



 メード・イン・ジャパンの映画でもあるまいし、


何で「愛が自己犠牲」なのかと。



 でも、そんな疑問はすぐに溶けましたね。



よく考えれば、アメリカっちゅう国は建国以来、


今の現在までずーっと「戦争」してるやないか、と。


となれば、


 キリスト的な「愛」より、そりゃ「自己犠牲の愛」を国是としたくも


なるっちゅうもんか、と。


 で、それが「アナ雪」にも影響された、と。



 と、こんな理解であっしはこの疑問を「腑に落としました」です。



 当たってるかどうか知りやせんが。


いや、当たってなくても、所詮は腹の出たオヤジの戯言。


 何の影響もない、と。



 しかし、しかしですね、いくら腹の出たオヤジの戯言でも、


あっしの中には、結構な「マジ」があるわけで。



 こんなご時世に「自己犠牲の愛」の映画が大ヒットする。


しかも子供中心に、全然「ありのまま」でよくない社会で、


こんな映画が大ヒットする、そこに誰も異議を問わない点が、


妙にひっかかるんですわ。そしてラストも引っかかる。


 「アナ雪」の姉妹はラストでハッピーになるんですがね。


  「妹の自己犠牲の愛にふれて、氷の魔法をコントロールできるようになった姉」


 というカンジで。



  ということは、またこの社会は誰かの


「大きな犠牲」を払わないと、


「力」をコントロールできないのか、なんて、暗喩的な


サジェスチョンを感じちゃったり。


 

  バッドな妄想の無限ループですわ。



おっと考えすぎ、考えすぎとここに来て、自分にブレーキですわ。




  ま、オヤジの妄想大暴走はそれとして、折角家族で観た


「アナ雪」、家に帰って子供達と「愛」について話でもするか、


と意気込んで夕食の席に着きましたがね、


 小学低学年の娘は、


「姉妹が最後に仲良くなって良かった」だけだし、


中学生の息子は、


「いまいちだったなあ」、


カミさんは、


「まあまあ」だけ。



 「それだけか」と呆れたあっしが、「アナ雪」の解説&「愛の話」を


始めたときには、もう三人ともTVのバラエティを観ながら笑ってる。



 カーッとなったあっしは思わず、TVのスイッチを消し、


「いいか、よく聞け。本当の愛とはな!」と大声を出し。


インドのガンジーの話をしましたねん!


「インドのガンジーはな、自分が暗殺者から銃で撃たれた時、


死ぬ前になんと言ったと思う?


 『その若者(暗殺者)を許せ』って言ったんだぜ。


これが本当の愛なんだよ。自己犠牲の愛なんで欺瞞なんだ!


 結局は戦争を正当化するためのごまかしの愛なんだよ。平和の


為の愛は、まさにガンジーが示した愛なんだよ!」



 とね。


  家庭団らんの座はあっしの大声で一気にしらけ、


あっしも瞬間、「やりすぎたかな」と思いました。


 しかし、さすがあっしの家族も負けちゃいなかった。



カミさんは、「ガンジーって変わった人だね」と一言、


顔も上げずに言いながらスーパーの安売りのチラシを眺め始め、


息子は、やっと話が終わったかと解放顔で


「ねえ、もうTV付けていいでしょ」とくる。


 娘は、あっしの話の途中から書き始めたドラえもんの絵に


色を塗り始めているし、ま、娘は小学生だからしょうがないかと


思いつつも、


「なんか違うだろ」というあっしの魂からの疑問は、


「説教」の後も増大するしかなかった、と。



  せっかくの休日のある日。


 そういえば、家族全員で映画館に行って映画を観たのは


初めてだった。なのに・・・・・・このバッドフィーリング。


でも、あっし以外の家族は「楽しんだ」だから、まあ、いいか。


みんな「ありのまま」が一番なんだろうな、と。


そんな我が家の「アナ雪」日でした。



 ・・・・・・ナンチャッテ。


 



 今日も長文駄文にてアイ失礼。


ではでは。