さて、息子で「痛い目」にあった私は、娘の時はある種の余裕を持って接していこうと思っていたところに、
あの震災と原発事故……。
セシウムがどうの、ホットスポットがどうの、と情報が錯綜する中、当時幼稚園に通っていた娘には、大幅に外遊びにレギュレートが掛かってしまったわけ。
そんなわけで息子の時にはよく行っていた家族での散歩も娘の時代は、ほとんどなくなってしまった。
女の子なものだから外で遊ばない習慣がつくと、結構家で遊ぶ事になれちゃうのね。
時折そんな事じゃいけないと、外の公園へ行ったりするのだけど、お兄ちゃん、つまり息子は小学校高学年で、息子の時間に親が合わせたりすると、娘とゆっくり時間と取れなくなってしまう事もほとんどで、娘と外へ出ることが中々習慣とならなかったり。
この辺り、ホント頭が痛い問題でしたね。
自転車も小学校一年生になってから慌てて買って、最近やっと補助輪が外れはしたんだけど、息子以上に自転車に乗らない始末。
ま、自転車だけを考えれば、当然男の子と女の子の差はあるだろうし、そこはあんまり心配はないにしても、兎に角、「身体がなまる」のは考えもの。
そこで兄妹一緒に始めたテコンドー。
ところが、ほどなく私が指導者とぶつかり、娘を辞めさせた事は、本ブログで既にちょこちょこ書いてきた話。
私に言わせれば、「ぶつかった」のではなく、指導能力のない「自信家」の指導者から「ぶつけれた」話だが、
良い指導者に出会いないのは、娘の運なのか、それとも私ら親の運なのか、ひとしきり悩んだ話でもあった。
娘は早生まれだが、頭がキレる(現在は悪い意味で)。
キレるゆえに、協調性が欠けるのだ。
周囲との協調性は、すなわち社会性でもある。
それは、言葉通り、社会と接する事によって育まれるものだ。
となれば、必然的に「社会と接する時間」の短い早生まれには、4,5月生まれの子と比べて、体格同様に不利になる点になる筈だ。
ところが、日本の教育は「社会性が何より優先」される。
その是非はここでは問わないが、そうであるゆえ、一般的な教師に限らず、子供に接する職業の人は、まず社会性を持って子供の優劣を決める傾向にある。
そこに落とし穴がないか、子供を指導する立場の人間はよく考えてもらいたいと思う。
その点において、兄である息子も早生まれで、幼稚園時代に、安易で幼稚な新米先生より「異常」扱いされたことがあり、それは以前にも書いた。
「大人しく列に並んでじっと大人の指示を待つ子供」が優等生なんて、
少し考えれば、その「おかしさ」に誰もが気付く筈なのだが、
別に教師を体験せずとも、ただ子の親になるだけで、
「言う事の聞かない子」より「聞く子」が偉いという錯覚はしょっちゅう経験させてもくれる、
それが正しく「子供」なのだ。やっかいである事は事実だ。
だからって、「そんなダメ」教師や指導者の気持ちを判って、連中らと一緒に、
「自分の子供にダメ出し」していいかって?
当然いいわけないだろ、と。当たり前田のクラッカーである(古くてソーリー)。
理由は簡単、それは、親と「教師、指導者」では、社会的枠組みや社会的役割が違うからだ。
少なくとも、子供を教えることで収入を得ている「プロ」が、社会的、科学的もしくは、確固たる医学的根拠なくして、
安易に 「子供にダメ出し」していいわけがない。
自分の能力のなさを子供の所為にするな、甘ったれ!
と、こっちが彼らの上司や先輩なら叱ってやりたいところ。
勿論、親が教師や指導者に「マル投げ」では、論外で、それはまた別の問題。「マル投げ」についての話は今はしない。
また、この話は親と教師達との「安易な連携論」を導くためのものでもない。
よく聞かれるところの「親と教師が一体」となってである。
教育に限らず、ありとあらゆる人間の連携には、そこに「見えない責任回避」がいつも付きまとう事を忘れてはならない。
尚且つ、「親と教師が一体」となって、「する」事とは、日本の場合、ほぼ学校生活に関して、つまりは、教師や学校の指示する方向に親が協力せよ、の意味合いが、非常に濃い事も問題だろう。
本来のベストな形は、親は親の「仕事=教育」をし、教師や指導者たちは、「プロの仕事」を各自が責任を持ってやることだと、私は思っている。
その、親と教師側という二つの柱を、時に背反する事があるかもしれないその二つの柱を、つなげていくのが、子供達の「仕事=成長」ではないか。
ここで間違っても誤解してはいけないのが、子供達の成長(=仕事)は、決して、例えばクラス35人全員で一緒に、とか、同じ時間的タームで語られるものではないという事だ。
しかし、繰り返しになるが、凡庸な指導者は、そこを見間違えるのだ。
列にじっと並べない子を「劣っている」と判断し、甚だしくは、「家庭環境の所為」にし、「精神的欠陥の所為」にしようとするのだ。
列に並べない生徒は手厳しく教師から「排斥」されるのとは逆に、かくして「皆と一緒にきちんと歌の歌える子は偉い」という事なり「皆のお手本になることはもっと偉い」という事になり、
先生や大人の言う事をよく聞ききながら、弱者や気に入らないものを排斥、攻撃を加えるような、優等生の悪党が学校と言う世界で必ず一定の数だけ生まれることになる。
彼らは教師達にとってまるで問題にならない。少なくともバレるまでは。
また例え、バレても、「今までの功績」を持って、教師から発動されるセーフティネットによって結局は傷がつかない場合も多い。
今日の「エリートの問題」の根源にはこういった「教師の問題」がリンクしているのでは、とも思われる。
大体考えてもみてほしい。世の中の全ての事柄で、素人とプロに分けてモノを考えた時、一体どれほどのモノが、プロなら100%出来て、素人なら0%、全くできないものがあろうか。
大抵のものは、素人なら60%までできるが、そこから先、80%以上がプロの仕事になるものばかりではないか。
それなのに、ほとんどの凡庸な教師、指導者たちは、教育のプロと自他称されながら、
「お宅の子供は普通じゃないから指導できません」と言うのだ。
これがプロの話だろうか。ここでいう普通とはなにか。
つまり、
「教師の言う事を素直に聞く」という意味であろう。
バカ言っちゃいけない。子供が素直に言う事を聞くならば、
素人の、誰にだって「教育」できるだろう。アホらしい。
「素人ができない事をできるのがプロ」という自覚を持った教師や指導者がこの世の中に何人いるだろうか。いないのか。
自分が親になる前は、自分の子供の頃や学生時代を振り返って、
「別に教師なんてどうでもいいだろ。連中らが俺の人格や人生にどうこうなんてあったためしがねえからよ。へっ……」
なんて、薄くなった頭とボテンと出た腹の現在の自分を一瞬忘れて、
20代前半の粋がった若造トークをかます事も可能でしたがね、
子の親となるとそういうわけにいかねえんですゲスよ。
しかも、その子供達が二人とも、明らかに安易に「要注意マーク」を貼られちゃったりすると、尚更なんですな。
ということで,今日の一枚
おっと、またまた駄文が長くなりました。
ではでは。
