昨日は、また一人だけの練習。アラ50&デブには非常に苦しい日々だ。救いなのは、身体が壊れそうな感覚を感じながらも続けられている事。
さて、子育て話の続きである。なりたての20歳そこそこの「兄ちゃん」先生から、ウチの息子が「話を聞かない。落ち着かない」から異常だと宣言された一件。
帰宅してから妻からその話を聞いたら激怒するしかない。こんなやつが「幼児の教育」にあたっているかと思うと、こんなやつを幼稚園で採用しているかと思うと、身体が震えるぐらいに怒りが止まらない。
私は妻に、明日園長のところへ行って話をつけてこいと、そして、謝罪の一言もなければ、幼稚園をその場で辞めさせてこいと指示。勿論、事を次第によっては自分も話をしに行くつもりだった。ところが、園長は妻に平謝りだったと言う。そして、その「兄ちゃん」先生に厳重に注意をすると約束してくれた。
これには、取り敢えずこちらもなっとくするしかなかった。翌日には、妻へ「兄ちゃん」先生からも直接謝罪があり、
一応事は済んだものの、私の中で子育てに関して考えを改める必要性に迫られてもいた。
周囲の子供より早生まれで、多少周囲と協調性に欠ける息子を「ダメ・異常」と烙印を押した「兄ちゃん」先生の判断に正当性の欠片もないが
(彼がその同じ時の父母会でウチの息子と対照的に「素晴らしい子」と誉めた子供は、5月か6月の生まれで大人がいる時といない時の態度が違い、陰でしつこく息子へイジメを繰り返す男児だった)、
ウチの子供が、このままでは「他人様の大人を味方につけられず」危険である事がはっきりしたからだ。言うまでもなく、「他人の大人」は、「聞き分けのいい子」が好きなのだ。
明らかになんらかの「障害・病気」があるなら仕方ない。でも、確かに違うのだ。ただ経験不足の幼稚園の先生から「ダメ出し」されただけである。
だが、兎に角私が思っていたようなやり方ではダメと言う事。
幼児教育の一般的知識があるとい不遜な自信を抱えた私が、更に自分の「不幸だった」幼少時代の経験を生かせば、自分の子供はスムーズに成長する筈なんて思っていた甘い自分。思えば、私の人生は、世の中のスタンダード理論が当てはまる生活なんかじゃなかった。大体、そんなスタンダードに当てはまる人間が一体どれくらいいるのか。
『子育て論の「スタンダード」、特に「こう育てれば、こんないい子になる」論なんてものは、「都合のいい状況」で「都合のいい大人」と「都合のいい子供」の関係を述べただけで、性格な科学的論証には程遠い』。
こんな事を学生時代の「生意気な」私は思っていた筈だ。
それが、自分の子供の事となった時に、「スタンダード論」に没入して、失敗を重ねていたなんて、なんて事だろう、と。
そうだ、私が「大学のスタンダード」に反発して、「落ちこぼれ」専門を教えていた大学、大学院時代に「帰ろう」、と。
「落ちこぼれが落ちこぼれるには理由がある」。
「理由さえ取れれば、何とかなる」。
いつもこう考えながら私は人を教えていた。
そこに戻れば上手くいくのではないか、と。
また長くなりました。では、続きは次回。