講演「私の好きな三人の日本人」(4)
7月9日(木)浅草寺ほうずき市〜10日。
心ある人々の心の中に永遠の生命を保ち続ける
そのような推察は、先生があの琵琶湖の西北湖畔の片田舎に住まわれながら、その頃新渡来の中国の新しい書物を求めていることなどによって可能なのであります。中には刊行後半年くらいしから経たない書物まで入手していることが、最近の研究によって明らかになってきたのであります。
こうして先生の学徳は心ある人から人へと、あたかも水の浸透するように、次第に浸透して行ったのであります。このことはあの周知の「正直な馬子」の話によってもその一端は伺えるわけです。こうした点からは、初めにも申し上げたことでありますが、先生は徳川時代三百年に輩出した幾百人にも及ぶ多くの学者の中にあって、断然頭角を抜いて他の追随を許さぬといってよいでしょう。わたくしが、学問の一端に携わる者として、最も深く先生を尊信しているゆえんであります。
その点たとえば山崎闇斎は弟子三千を率いて首都に豪語していた如き、また山鹿素行がいかなる大名の招聘にも五千石以下では応じないと構えていた如き、あるいは京都に住んで当時の上流階級の人々との仲間入りをしていた伊藤仁斎や、大藩の黒田藩の藩儒として優遇されていた貝原益軒などと比較して、なぜそれらの人々に惹かれないで、江西の一寒村にありながら、深く真学の一道に生きられた藤樹先生に深い景仰の念を抱かざるを得ないかが、お分かりいただけるかと思うのであります。
大洲から帰られた以後の先生は、全く庶民として庶民の中に生活せられ、何らの肩書きもなかったのでありますが、もし先生が現在の世に生きられていたとしたら、その社会的地位はどの辺かというと、まず短大の教授か新制大学の講師くらいのものでしょう。
しかもそれでいながら、わが国の陽明学の開祖となり、その学徳は徳川三百年はもとより、明治以後百年をへた現在でも、心ある人々の心の中にその永遠の生命を保ち続けているのでありまして、そう思う時、わたくしは、人間がこの地上の短い生涯において真実というものの「力」を、今さらのように思わずにはいられないのです。
幸いにしてわたくしは、恩師西晋一郎先生及び畏友松本君との道縁により、すでに学生時代から先生のご郷里の江州の小川の地を訪ねること今日まで十幾回にも及び、土に浸み込んでいる先生の徳風の余香に触れて参っているのであり、わたくしのような凡庸な人間が、今日までどうにか一筋の道を踏み外さずに来ることのできましたのも、ひとえに藤樹先生のご遺徳のお陰と思うのであります。