どんな試練に遭遇しても逃げてはならない!
6月27日(土)
運命は自ら切り開くものーーー。明治38年、当時の新聞が「堀江6人切り」と報じた事件で、両腕を失いながらも、他を怨まず、運命と向き合って生き抜いた大石順教尼(おおいしじゅんきょうに)の生き方に学ぶのが「無いから出来る」(石川洋著、致知出版社)です。「まさかの坂」に遭遇しても、「逃げてはならない!」ということです。
運命を開くことができるかどうかはその人の心
人生には3つのさか道があるという。1つは“上り坂”、2つは“下り坂”、3つは“まさかの坂”である。人は時に上り坂の幸せを味わい、時には下り坂の辛さに落ち込む二面性を経験する。したがって、人生の重さを体得した人は、上り坂の時に驕らず、感謝と謙虚を守り、下り坂の時には自分をダメにせず、明日を信じて生きることを知っている。
結局、人生の安定は、上り坂でも下り坂でもない、“平常心”を養うことである。問題はまさかの坂との出会いである。人生において想像もしなかった不慮の出来事に遭遇し、なすすべもなく絶望の渦に巻き込まれていく。私たちは、このまさかの坂を乗り越えていかねればならないのである。
大石順教尼は、そのまさかの坂を体験し、人生のドン底に生き続けながら、ついには“無手自在”の活路を見だした人である。本名を「よね子」という。明治21年(1888年)3月14日、大阪の道頓堀の「二葉ずし」の長女として生まれる。
3歳の時、京舞・山村流の山村きみに師事し、10歳にして名取となる。やがて大阪・堀江の芸妓委員長をしていた山梅楼の主人、中川万次郎の眼にとまり、養女として「妻吉」となり、西川流舞踏を習う。この養父、万次郎の囲い者に、おあいという芸者がいた。おあいは身持ちが悪く、万次郎はそのことに心を悩まし、ついに常軌を逸していく。
明治38年4月中旬頃、おあいは家出をし、行方をくらました。店の芸妓がその行先を隠していると思い込んだ万次郎は、6月21日の明け方、芸妓たちの寝室に踏み込み、6人に凶刀を振るう。5人が絶命、妻吉だけが両手を切り落とされ、血の海の中で一命をとりとめる。当時の新聞は、「堀江六人斬」という見出しでこの事件を報じた。
なぜ、妻吉だけが一命をとり止めることができたのか、私は順教尼にお尋ねしてみた。「私は、逃げなかったから。後から思うと、亡くなられた5人の妓は悲鳴をあげて逃げたため、後ろから日本刀で切りおろされたのだと思う。養父さんはそんなことをする人ではない。何かの間違いだ、と信じて逃げなかったからだと思う」、と語って下さった。
妻吉は江戸堀の高安病院に運ばれた。手術に当たった高安博士は述懐している。「よう助かったものだ。第一腕を切られてから3時間も4時間もそのままの状態で放置されていたのだから、普通の人なら大量出血で命は失われている」。そして博士はポツンと漏らした。「騒がなかったからだろう」。
順教尼が言われる、「逃げなかったから」という心情の吐露と、高安博士の、いき抜くことができたのは「騒がなかったから」という述懐は符合する。人間は時折、想像もできない運命の危機にさらされることがある。その運命を開くことができるか、不運に落ちていくかは、その人の心によって決められることを知らされた。
よく、運命にさらされるという。私たちは不慮の出来事にあうと、運命に操られていると思いがちだが、運命を開くためには、運命をどう生きるかという前向きな取り組みが必要なのである。事件後の裁判で検事から「お前は、万次郎に対して、今どんな感情をもっているのか」と問われて、次のように答えている。
「私はお養父さんを憎めまへん。重い傷だすよって、いつ死ぬかもしれへん。けど、恨み憎んで死ぬことは嫌だす。(中略)4年間のお養父さんの恩は、私は返してありまへん。今、恩返しをして、死にとうおます」。順教尼を語る上で、最も重要な一事がある。それは加害者、万次郎に対しての受け止め方だ。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、順教尼の万次郎への姿勢は「罪を憎まず、人も怨まず」の、もっと深い心境を感じさせる。
後年、順教尼が建立された仏光院の本堂には、堀江事件の5人の犠牲者と加害者、万次郎の位牌が祀られている。加害者を祀る本堂というのは、おそらくどこにもないであろう。順教尼と生活を共にされた身内の方やお弟子さんに尋ねても、老尼は終生、万次郎に対して憎しみめいた言葉を口にされたことがなかったという。
不思議な方であるとしか言えないが、順教尼に学ぶ者として、この一事を、もう少し足元に引き寄せておく必要がある。日頃、私たちは過去に囚われ、許せないものを引きずっていることが多い。それが結果として今を生きる活力を失わせ、正しい判断を妨げ、将来を駄目にする原因になっているのではないか。(つづく)