「全一学」を生み出した波瀾の生涯

 

9月17日(火)十五夜・中秋の名月。

 

「全一学」の提唱者、森信三先生の波瀾万丈の人生に焦点を当てています。本日は大学へ奉職した翌日から始めた校内での紙屑拾い、さらに「教育的世界」の刊行です。

 

・大学構内での紙屑拾い

 

神戸大学へ奉職して第一に着手したことは、廊下その他の紙屑拾いです。赴任の翌日から着手。拾ってもひろってもなかなか減らないのですが、断固として「一切の例外をつくらぬ」覚悟をもって、紙屑拾いに徹しました。

 

学生の足下に落ちているのさえ、「どうも失礼!」と拾い、半ば軽蔑、嘲笑をうけつつも拾い続けました。といっても学生たちに「紙屑を拾いなさい」とは、唯の一度も言わなかったのですが、半年も経たぬうちに、全学舎の廊下のほぼ8割前後の紙屑が姿を消したのは不思議なことです。

 

*足もとの紙クズ一つ拾えぬ程度の人間に何ができよう。(一日一語 7月10日)

 

こうした日々の活動の中でも、家庭の財政的な苦悩は軽減することなく、文子夫人は開顕社の没落以来の心痛から、少し精神上の異常さえ見られました。そこで夫人とその実家を嗣ぐ次男の二人を家におき、先生は長男、三男をつれて当分別居ということになります。

 

・「教育的世界」の刊行(61歳)

 

そうした生活にあっても、「開顕」・「母と子」は、一種の公器として続行したのですが、昭和30年の暮れから、夫人は心身の疲労が極限に達し、強度の症状を呈して病床に倒れ、入院治療の身となり、そこで「開顕」・「母と子」は休刊の止むなきに至りました。

 

神大に奉職して3年目の昭和30年7月、かねてより心に醸成した「教育的世界」を一気呵成に書き上げます。その所用日数は16日間で、執筆三昧の集中力には驚くほかありません。この書が翌年の8月、還暦記念として刊行され、全国の同志から熱烈な支援を受け、姉妹編の「教育的実践の諸問題」も引き続き刊行されることに。この2冊の刊行により、どん底といえる生活にも一脈の微光が差しそめたのです。