なぜキリスト教は世界宗教へ発展することができたのか?

 

8月3日(土)秋田竿燈まつり〜6日。

 

「聖書がわかれば世界が見える」(池上彰著、SBクリエイティブ)。池上氏の著書は周知のとおり、分かりやすいのが最大の特徴です。本書も国際情勢を理解するには「聖書」の知識が必要だとの視点から、一般的にはややこしい問題を分かりやすく歴史的に解説しています。

 

ローマ帝国で感染症が広めたキリスト教、キリスト教会の東西分断、イスラム教と対立する十字軍の結成、「ジハード」(聖戦)、「聖地エルサレム」、「ルネサンス」、マルティン・ルターの宗教改革、「イエズス会」の結成、布教活動など、言葉ではよく耳にしてきたことです。

 

ユダヤ教から生まれたキリスト教は、当初は秘密結社のように見られ、教徒はローマ帝国で迫害されます。そのキリスト教がローマ帝国内で広く普及していく、きっかけになったのは感染症の流行です。この時、多くの人々はキリスト教に救いを求めたのです。

 

その理由は悪疫の荒れ狂う最中でも教徒は病人の看護を惜しまなかったからです。皇帝のコンスタンテイヌス大帝は、キリスト教の迫害を止めて容認(313年)。392年にテオドシウス帝はキリスト教を国教と定め、手厚い保護を与えるようになります。

 

広大な土地を支配するローマ帝国から、キリスト教はヨーロッパ各地に広がりますが、テオドシウス帝の亡き後、帝国は東西に分裂することになり、その影響を受けたキリスト教はローマ教会と東方正教会に分断されます。

 

西側のローマ教会はローマ教皇を頂点とするピラミット構造となり、世界中の教会を統率します。これに対して東方正教会は政治権力と結びつき、ロシア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会など独立した存在として発展していきます。

 

11世紀後半、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝が、ローマ教皇に援助を求めたことから「十字軍」が誕生します。東ローマ帝国の本拠地があったコンスタンティノーブル(現在のトルコ)にイスラム教徒の政権、セルジューク朝が進出してきたからです。

 

これに応えたのがローマ教皇のウルパヌス2世で、「聖地エルサレム奪還」の参加者に十字架の印をつけるように命じ、この戦士たちが「十字軍」と呼ばれたのです。1099年7月、十字軍はエルサレムを陥落させると同時に、7万人以上が犠牲となる虐殺と略奪が始まります。

 

その後もイスラム軍と十字軍は戦いを続けます。度重なる十字軍の攻撃を受けたイスラム勢力の指導者サラディンは、1187年に「ジハード」(聖戦)を宣言、この時点からイスラム教徒は、十字軍をキリスト教徒の侵略とし、イスラムの土地を守る聖なる戦いに立ち上がったのです。

 

14世紀に入ると、ヨーロッパで「黒死病」と呼ばれたペストが大流行し、人口の4分の1が死亡する事態となり、無事を祈っても次々に罹患し、カトリックへの信頼が揺らぎます。神を絶対視する疑問が生まれ、キリスト教以前の文化を再生することが「人間性の回復」につながる、その運動が「ルネサンス」です。

 

「ルネサンス」後期のヨーロッパでは、教会への不信感が広がり、聖職者を通してではなく、イエスを通してのみ神を知ることができるとする神学者が現れます。これが宗教改革の始まりで、その象徴的存在がドイツの神学者、マルティン・ルターです。

 

カトリック教会では「聖書」はギリシャ語、ラテン語のものしかなく、破門されたルターは「新約聖書」をドイツ語に翻訳し、庶民が読めるようにします。この聖書が活版印刷で大量に印刷され、各地に広がっていったのです。

 

「聖書に書かれていないことは認められない」というルターの教えが広まると、ローマ帝国のカール5世は再びルターを弾圧へ。これに怒ったドイツの諸侯が抗議(プロテスト)したことから、彼らはプロテスタントと呼ばれるように。これが「プロテスタント」の誕生です。

 

プロテスタントの勢力拡大に危機感を抱いたカトリック側でも、聖職者の風紀を正し、布教に力をいれます。1534年、スペインの貴族で軍人のイグナティウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルなど7人が「イエズス会」を結成し、新しい布教活動、教育事業を開始します。

 

宗教改革は結果的にカトリックが世界の布教に乗り出すことになり、キリスト教が世界宗教へ発展するきっかけになったということです。(T OPPOINTから抜粋)