「全一学」を生み出した波瀾の人生

 

7月30日(火)

 

・一年間は阿倍野高等女学校で英語教師(27歳)

 

広島高師を終えて開かれた道は、旧制女学校の教師です。当時は高師から大学へは進めず、1年間就職する義務があり、その奉職先は大阪の阿倍野高等女学校に決まり、ここで一年間英語の教師を勤めます。

 

広島高師時代の学資の2年分は母方の叔父にあたる山口精一氏で、後半は匿名の篤志家からの提供です。卒業後、恩人である匿名の篤志家はサントリーの創業者、故鳥居信二郎氏であることが判ったのです。教師を勤めながら大学受験を志すも、気がかりは学資の問題です。

 

そんな頃、四日市の実業家である小菅釼之助という方が、還暦記念として愛知県、三重県で学資に困っている優秀な生徒に、無条件で学資を支給するとのことを知り、先生はお宅へ伺い必死の思いで懇願し、お許しをいただくことができたのです。

 

*人間というものは、自分が他人様のお世話になっている間はそれに気づかぬが、やがて多少とも他人様のお世話をさせてもらうようになって、初めてそれが如何に大変な事かということが分かるものです。(一日一語 4月17日)

 

・わが国における最高水準の教授陣

 

京都大学哲学科へ入学したのは大正14年4月であり、先生すでに28歳。当時の哲学科は西田幾多郎先生の講義が評判で、特別講義には本科生はもとより大学院の学生、助教授の方まで聴きにくる盛況で、大教室は満員でまさに旭日昇天の勢いと言えるほど。

 

西田先生の講義ぶりは、いかにも独創的な哲学者にふさわしいもので、長い教壇の上を右へ左へ常に歩まれつつ話すというスタイル。西田先生に次いで評判の良かったのは田辺元先生。東北大学で理学部講師をしていたのを、西田先生が自身の後継者として迎えたのです。

 

田辺先生の講義は理路整然たるもので、極めて論理的だったようです。これに比べれば和辻哲郎先生の講義は、美文調でそのまま書物にしても、卓れた名文といえるもので、しかも独創的なもの。