「全一学とは何か」

 

6月21日(金)

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学とは何か」をほぼ原文のまま紹介しています。本日は自然界を大観する東洋人と自然科学的文明を生んだ西洋人の思考の違いを説いています。

 

・「易」における陰・陽の二原理も、もとより理に即した“いのち”の把握ではあるが、そこには“いのち”の周流が予想されている。けだし陰・陽とは、“いのち”の全面的周流に対して、いわばその直径の両端にあたる大極において捉えたものというべき趣がある。

 

西欧の哲学思想の多くがーーヘーゲルとかベルグソンを除けばーー概して「存在」を静止せるものであるかに考え、その分析に精緻の極を尽くすかの観があるのは、西欧人種は自然科学的文明を生んだだけあって、客観的自然界の全体をも一種の巨大なる死物と見て、それを分析した上で、人間の生活に有限なように再組織するところに、西洋人種のいわば思考の原型があるが故ではあるまいか。

 

・西洋人種は一般に活動的人種といえるが、それは狩猟・牧畜などの時代が永かったことの上にも証せられるが、その為に自然界に対しても、これを単に利用の観点から見ることが多く、東洋人のように対象たる自然界を大観し静観することより、

 

かえってその背後に自己もまたその極微の一微塵として抱かれている大自然に“いのち”を観る趣が深い。然るにこれに反して東洋では、かかる傾向をもつ思想家は乏しく、近世ヨーロッパは、わずかにシェリングが多少ともかかる趣を宿しているといえようか。

 

・これに反して東洋の「易」の世界観では、大宇宙の全一的生命の充周を大観することによって、そこには絶大無限なる全一的生命が、大宇宙法界に遍満しつつ、到るところにその循環周流を現成していることを透察し徹見した成果であり、その所産といってよい。したがってそこには極大より極少へ、また逆に極少より極大へと、“いのち”の周流の無量多の円環が現成しているわけである。

 

・その趣を先には、“いのち”の環を、仮に直径の円周を切り結ぶ接点を中心として陰・陽に二大別するといったが、しかし更に具体的即実行的に考えれば、その場合何も円を横切る直径などといわなくても、“いのち”の周流における半円ずつを押さえての考察だともいえる。