「全一学とは何か」

 

6月5日(水)芒種。

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学とは何か」をほぼ原文のまま紹介します。本日は「易」理が天地の運行、人類の治乱興亡、個人の盛衰栄辱など人生の根本的諸問題に対して、一切を明弁すると説いています。

 

・その点では陰陽による易の哲理は、それが易簡を極めているだけに、却って大観の明を失わぬわけである。たとえば死の問題も、生あればやがて死あるは不可避の必然であり、また人間に男女があり、しかもほぼ同数だということは、男(陽)女(陰)相引くは当然の理という外ないであろう。

 

・否、この地上における男女の数がほぼ同一だということだけで実に不可思議という他はない。いわんや大戦後しばらくの間は男児の出生率が女児のそれに比べて多いとされるが如きは、いかなる人生的知性によっても解しうる事象ではなく、全く陰陽相即する大宇宙生命の絶大なる動的平衡という他ないであろう。
 

・もちろんこれだけで、生死の問題をはじめとして、性や恋愛・愛欲・結婚など切実な人生の諸問題が尽くせたわけでは毫末もないが、これら人生の根本的諸問題に対して、真に大局的な高処対処にたって、一応その位相を大観する要はあり、かかる点では東洋の易の哲理には深く学ぶべきものがあるといえるであろう。

 

・これ西欧ではもとより、わが国の西田哲学などにおいても、大宇宙生命の動的平衡における二大異質的契機たる陰陽の二大契機が全然看過されているにも拘らず、この全一学にはこれを重視し、尊重しているゆえんである。

 

・このように大局的立場に立って、その大観的位相を明辨した上で、その理を析くならば、それがいかに精緻を極めようとも、いわゆる獲物を逐う猟師山を見ずというが如き弊は免れ得るのであって、ここに全一学のもつ一特性を見んとするわけである。

 

・もっともわが東洋の地にあっても、古来「易」は難しいとされ、孔子の如きでさえ「韋編三たび断つ」(書物を熟読するたとえ)といわれているように、その至深処に到っては容易ではなく、多くは字句や文義の抹消的解義に囚われて終始したのが大方だといってよい。