「全一学とは何か」

 

5月20日(月)小満。

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学とは何か」をほぼ原文のまま紹介しています。本日、「いのちの自証」とは、“いのち”の本質的作用である叡智のはたらきであり、さらに闇を照らす「いのちの自照」でもあると説いています。

 

・仮に物に喩えれば、炭坑などの中に入るのに額に前方を照らす電灯をつけて入り込むようなものといえるであろう。それは坑内の暗闇のすべてを照らすとはいえないが、しかし少なくとも自己の進み行く前方だけは、ある程度照らすことができるわけである。

 

このような「聖なる闇」を照らす叡智を身につけることこそ、「いのちの自証」と言ってきたものに外ならない。したがって「いのちの自証」とは換言すれば、「いのちの自照」とも言えるわけである。そしてかかる聖闇を照らす叡智の微光こそ、実は全一的生命より照射し来る“いのち”の絶対光の極微といってよいであろう。

 

・以上絶対唯一なる大宇宙生命としての全一的生命の考察にあたり、おのずからの「いのちの自証」の立場に立とうとしていると述べたが、これに対して人々の中には、その絶大なる大宇宙生命の無限の秘奥の一端の究明にせよ、単なる個々人の“いのち”に即するだけで、たとえその極微にせよ、果たして伺いうるかとの疑念を抱く人が少なくあるまい。

 

・否、恐らくはほとんどの人が疑念を抱くといえるであろう。それらの人々の大方は、それよりもやはり古来の慣行に従って、人間に特有なる理性の力によるべきだと考えるであろう。だが人間的理性というものの本質が相対的なものだということについては、しばしば述べてきたところであって、要するに叡知は主客に分裂して相対するのである。

 

したがって自然科学のように客観界という一面について、その分析を試みる点では無比の長所を発揮するも、主・客融合の立場に立つ叡知の作用によるのでなければ、全一的生命の無量の内容については、極微の一端すらその真趣は把握し難いといわねばなるまい。

 

・然るに“いのち”の自証の立場とは、コトバを換えれば“いのち”の本質的作用ともいうべき叡智の作用らきによるわけである。そこには“いのち”の絶対的本源より射し込む絶対者の絶対的叡知の光の微光が、自己を中心として一種の円相を描いて照射するわけである。