「全一学とは何か」

 

5月15日(水)京都葵祭。

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学にたどりつくまで」の講演(昭和52年)に続き、「全一学とは何か」をほぼ原文のまま紹介しています。本日、全一的生命は何ゆえ自らを分かって万有を創生するのであろうかと問い、この地上に栄えをもたらすためと説いています。

 

・同時にかかる全一的生命は、いわゆる目的というべきものはない。けだし目的があるとは、それ自身自全でないことを証するわけであって、すなわち相対的なることを証するといってよい。したがって当然至極のことながら、全一的生命は自足にして自全である。

 

・では一歩を進めて全一的生命は、何ゆえ自らを分かって万有を創生するのであろうか。これは“必然”というも充分な解明ではない。またこれを慈愛の故に――といっても充分その意を尽くすものとはいえない。けだし“必然”という時、この地上ではともすれば因果的必然、さらには機械的必然を意味しがちだからである。

 

・もし強いて“必然”という語を用いるとすれば、結局絶対的必然、さらには生命的必然とでもいう外あるまい。そのように全一的生命は、何ゆえ無限なる自己分身作用を起こすかと問うことは、元来当を得ない問いでありながら、有限存在たる人間にはとかくに免れ難い分別的な問いである。

 

だがそれに対してもし絶対的必然というとしたら、それはまた大愛の故に――ともいえるであろう。もちろん大愛・慈愛の故にと言っても、人間の人間的心情の投影、ないしはそれにもとづく憶測に過ぎぬといわねばなるまい。

 

・また大宇宙の全一的生命の自己限定として、万有の創生を以ってこの地上に栄えをもたらさんが為に――との見解もあるが、これも人間の立場からの見に過ぎないが、しかし比較的無難な見方であって、一般に無理なく受容できる見方ともいえよう。

 

けだし全一的生命が、もしその絶対的自立自全のままに留まるとすれば、この地上は一種死の如き静けさであって、現に見るような一切の地上的栄えのもたらされぬことを思えば、全一的生命が自らを無限に分割して万有を創生しつつあるおかげで、この地上にはかかる栄光がもたらされたのだ――とは、我々自身感謝の立場に立つ見解だといえよう。