「全一学とは何か」

 

5月14日(火)

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学とは何か」をほぼ原文のまま紹介しています。本日は「時空的限定を超えた太初に、絶大無限の“いのち”が在りとしなければ、一切の論究の手懸りが得られぬ」と述べています。

 

・かくして「いのちの自証」の立場に立つ吾人としては、時空的限定を超えた太初に、絶大無限の“いのち”が在り、そのように“在り”としなければ、一切の論究の手懸りが得られぬが故である。かくして「いのちの自証」の立場に立つ吾人にとっては、これが絶対不可避の真理という他ないのであって、これは畢竟絶対的信証という他ないわけである。

 

・かく言えば、対象的分析論理の立場を超え得ない人々には、「世界創造」などという遥遠無窮な過去の出来事が、一体いかにして分かるかーーと怪しむかと思われるが、「世界創造」の問題は、もともと時空的制約を超えた“いのち”の絶対的次元に立って考えなければならないことを知ることが、実に一切に先立つ根本的要請だということを先ず知らねばなるまい。

 

・では如何にしてかかる時空の制約を超えることができるか――というに、それこそ実に“いのち”の自証の立場という外ない。しかしかく言っても相対的知性に煩わされている人々には、人間がいかにしてそのような超時空的な太初の絶対的生命について知ることができるのかーーその不審の念は消え難いであろう。

 

・だが、我々自身が、さらに突きつめれば、この私自身に現在ここに与えられている“いのち”は、絶対なる大宇宙生命の極微の一生命という他あるまいが、しかもそれが“いのち”であるという点では、そこに直接性があり、その直接性において我々は、無限の時空を越えて大宇宙の絶対的生命――

 

すなわち全一的生命と直接し、その極微における映現たることを可能とするのである。それ故この根本の信証がなければ、一切の哲学・宗教は虚妄に帰し、単なる幻影に過ぎないといわねばなるまい。

 

・一切の時空的限定を超えて、太初に大宇宙生命たる全一的生命が存在したが、しかしそれは“何故に”とか“如何にして”というような、人間の知性たる分別知によって問うことを許されない。太初から絶大無限の全一的生命が今もなお存続し続いているということである。