「全一学とは何か」

 

5月13日(月)

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学にたどりつくまで」の講演(昭和52年)に続き、「全一学とは何か」をほぼ原文のまま紹介しています。本日、「世界創造」の問題は、時空的制約を超えた“いのち”の絶対的次元に立って考えなければならないと説いています。

 

・したがってそこには、自説のみを絶対的に確実として、自己以外の立場をすべて虚妄と主張するが如き独断と偏見はないのである。かく言えば、「それでは学の絶対性がないではないか」という人もあろうかと思うが、吾人の考えでは、哲学ないし全一学の「絶対性」は、いわば「相対的絶対性」ともいうべきものであって、「絶対的絶対性」と主張しうる如何なる哲学も宗教も、現実には在り得ぬことを知らねばなるまい。

 

・かくしてその考察をまず「世界創造」の問題から始めようと思うが、かく言うわたくし自身はもとより、大宇宙間に存在する無量の万物は、畢竟するにこの「世界」すなわち「大宇宙」あってのことであり、もしこの大宇宙が存在しなければ、万有はもとよりかく言う私自身の存在すら考えられぬわけである。

 

・ではそもそも世界は如何にして創造されたのであろうか。これに対してキリスト教では周知のように、この世界は神によって創られたというが、これに対して仏教ではこの世界は無始無終であって、いわゆる造物主というが如きものは存在しないというのである。ではかかる矛盾は一体いかに解すべきであろうか。

 

・この点について一言すれば、以上はいずれも元来思惟不可能な問題であるのに、仮に強いて表現しようとしたものであって、この世界が現にかく存在する以上、一応これを造れるものを考えようとするのは、果より因に遡求する人間的知性にとって、一応不可避の必然といえるが、それでは「かく世界を創れる神は何によって創られたのか」と、さらに原因への遡及が考えられるわけである。

 

・仏教ではこの世界を無始無終とし、それによって一見因果の連鎖には引っ掛らぬかの如く思われるが、単に無始無終というだけでは、人々の真の満足は得難く、ここに華厳の重々無尽縁起の如く、万物の無限相関の理を示すように、無限の拡大的展開を説くに到るのである。実証可能の立場を、無限に超出する論理の極限的展開とならざるを得ないわけである。