「全一学とは何か」

 

5月3日(金)憲法記念日。博多どんたく港祭り〜4日。

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学とは何か」をほぼ原文のまま紹介しています。本日、「全一学」の理はつねに行によって裏づけられるとし、常に日常的実践を離れないこと。さらに「全一学」の根本的態度が、“いのち”の「自証」にあると説いています。

 

・では当来の「全一学」は、これまで哲学と呼ばれてきたものと比べて如何なる相違があるかというに、それはこれ迄の哲学が純理の分析に終始して、とかく行的なもののウラづけの欠きやすい弊を避け、総じて理論の背後がつねに行及び直感によって裏づけられていることを根源的要請とする。

 

すなわちそこに示される真理はいずれも知行合一的な生ける真理であり、かくして仏教における学を戒・定・慧の三学とした東洋的教学について、改めて深く省みるべきものがあるとの立場を離れないのである。

 

・かくして「全一学」にあっては、理はつねに行によって裏づけられるが、同時に他の反面、世界観的体系の基礎は、つねに日常的実践を離れぬを要するのであって、従来の「哲学」概念とはその趣を異にするものである。

 

・「全一学」はその名称自身が端的に自己を表現しているように、この大宇宙の全一的生命の全一的顕現たることを希求するといってよい。

 

・かくして「全一学」にあっては、学の根本態度は“いのち”の「自証」に置かれるべきである。けだし我われ人間存在にとって最も顕著、かつ確実な事実は、我々人間が各人それぞれに“いのち”を持つ点であって、かかる根源的事実を踏まえなければ、真に人生を照らし導く力ある学とはなり得ないであろう。

 

・かつて西洋哲学では、デカルトは「我思う、故に我在り」の語が示すように、自己の全存在すらもこれを疑ってかかったが、しかも疑うという思惟作用そのものは、つねに否定し得ぬとし、それに即して自己の存在を骨定したが、そのような懐疑も、いわゆる「方法的懐疑」と呼ばれるように、実は人為的作意的なもので、現に彼は自己の全存在そのものを疑うといいながら、現実には平然として食事し睡眠をとり、他人と会話を交わしていたのである