「全一学にたどりつくまで」(講演)

 

3月27日(水)

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学にたどりつくまで」の講演(昭和52年)を抜粋して紹介します。本日は西田門下の中で主体的に道を拓いた三名、仏教の毎田周一、マルクス主義の梯明秀、文学の唐木順三の名を挙げています。

 

どうも先生の側近にいなかった人々のほうが、却ってそれそれの道を拓いているかに思われるのであります。仏教の世界における毎田周一、マルクス主義の梯明秀、文学の世界における唐木順三などという人たちこそ、あの西田先生という巨大なエネルギーに接しながら、ついに自己の主体性を失わずに、それぞれ独自の世界を拓いた人と言えましょう。

 

ではあれほどの俊秀を集めながら、どうしてこういう事になったと申しましますと、当時の旧制高校というものは、一種の教養的な語学校だったため、一般的な教養と語学力しか持たない若人たちが、西田先生のあの巨大な磁鉄鉱に近づいたが最後、忽ちそれに吸いつけられ、全く身動き出来なくなったのは、むしろ当然のことといってよいでしょう。

 

前記の特色ある三人は、西田先生の巨大な影響を受けながら、ベッタリとそれに癒着し切らないで、ともかく自らの主体性を保ってきたからだといえますが、その根本原因は、いずれも「純哲」出身ではあっても、狭義の哲学に囚われなかったせいかと思われます。

 

これら三人の人々は西田学派というより、西田哲学を触媒としつつそれぞれ主体的に「仏教」「マルク主義」「文学」に自己を生かしたわけでありまして、この点で今日改めて考えられてよかろうかと思うのであります。

 

この点に関連して今一つ考えさせられる事柄は、いわゆる「西田学派」と呼ばれる人々の多くは、先生によって現世的な地位を恵まれ、西田先生がそのかみ嘗められた現世的地位の「不遇」という辛酸を嘗めていないことでありまして、「因果歴然」とでも申しましょうか、この地上に生起する事象というものは、恐ろしいほどに冷厳極まりないものだということです。

 

以上の三名の他、西田哲学について言及すべき人があるとすれば、それは鈴木亨という人であります。今日なお一般的には周知されていませんが、西田哲学の唯一の継承者というべき人でありましょう。否厳密に申せば、むしろ「西田・田辺哲学」を発展的に継承している人であります。