「全一学にたどりつくまで」(講演)

 

3月13日(水)奈良春日大社・春日祭。

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学にたどりつくまで」の講演(昭和52年)を抜粋して紹介します。本日は奥邃先生と田中正造との関わり、「奥邃広録」の福田ご夫妻から「野の思想家」の存在と偉大さを教えられたと語っています。

 

福田武雄・与というお二人の非常に危篤な方と親しくなりまして、そのお宅をお訪ねして二階へ通されたところ、何と目の高さの処に「奥邃広録」という五冊の書物が並んでいるではありませんか。探し求めるようになってから、実に七年の歳月をへた後のことだったのです。

 

新井奥邃という方は、旧仙台藩士であり、維新直後の変乱の際、榎本武揚が函館で官軍に抵抗していた中に加わっていた一人です。明治の新政下でお尋ね者になっていることがわかり、一年半ほど千葉県下の漁村に身を隠しておられたのです。

 

その後、森有礼の第一回アメリカ留学生、25人に推薦された友人が辞退して先生を推薦し、その一行に加わり遣米留学生に選ばれたのです。24名は大都会のそれぞれの大学に入ったのですが、奥邃先生はハリスという、心ある人々の間に知られていた「隠者」の経営するブドー園に入り、爾来三十余年の永きを祈りと労働の生活に終始されたのです。帰国後は知人の処に奇食され、転々とその居を移しておられたのです。

 

人々の中には、「新井さんは三十年以上もアメリカにいたというのに、何一つこれという資格も技術も身につけないで帰国し、他人の家に厄介になっている」云々と、蔭口を利いた人もあったとのことです。先生は浪々の生活の中から、秘かに道を伝える機縁を求めておられたようであります。

 

そのうちある篤志の人が巣鴨の地にささやかな寮を作り、先生はその寮に入られ「謙和舎」と名づけ、二十名前後の学生と起居を共にされたのです。田中正造は晩年代議士を辞めてから上京する毎に、奥邃先生の「謙和舎」に泊めていただくようになったようです。

 

ところが奥邃先生は早起きの方だったようで、毎朝午前三時にはもう起床されていたようであります。正造は時々寝過ごして、先生に注意されたようで、当時の日記に、「歳七十にして朝寝を戒められる」と記しています。