「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月20日(火)歌舞伎の日。

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日は第4節「時・空の無限觀」の続きで、新たなる現代の形而上学への歩みは「いのちの自証」の立場だと自説を述べています。

 

時間および空間の論究は、このような単なる人間中心主義のみでよいと言えるであろうか。それというのも、カントの哲学は近世に入った人間的自覚の理論的自証の、空前の一大偉業とはいえようが、その根底は何といっても人間中心的な世界がその基調をなしていることは、否定し難いといってよいであろう。

 

かくして彼の哲学は、旧き空疎な形而上学の残骸の破壊には空前の威力を発揮したといえるが、新たなる形而上学の建立にまでは至らなかったことは、これまた周知の事柄といってよい。かくして彼を継ぐフィヒテは、「主我的」人種の特質を発揮して、自我の自覚の形而上学ともいうべきものを打ち立てた。

 

やがてヘーゲルに到っては、元来「歴史の論理」たる弁証法の論理を以って、「歴史の形而上学」ともいうべきものを創建したが、そのオルガノンたる「弁証法」の論理ゆえに、歴史のもつ相対性をついに脱却し得ずして、逆に唯物史観に翻転したことについては、これ以上立ち入る要はないであろう。

 

かくして我々は、カントの人間的自覚のもつ現実的真理性を認めつつも、それだけでは留まらないで、それを踏まえつつ「いのちの自証」の立場に立ち還って、今や新たなる現代の形而上学への歩みを踏み出さねばならないであろう。

 

けだし人間が、有限存在として生死を免れ得ない以上、人間に形而上学的希求の消滅する時は永遠に来ないであろう。そして今や再建されるべき、新たなる現代の形而上学において要請される根本条件の一つは、何よりもまず「いのちの自証」の立場というべきであろう。

 

かくしてカントによってその残骸を葬り去られた、人間中心主義的地平の上に再建されるべき現代の形而上学の根本条件は、何よりもまず「いのちの自証」の立場に立つのでなければならない。したがって、そこには必然に諸々の思想学問が、如是の自証への媒介的役割を演ずべきであろう。