「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月8日(木)針供養。御事始め。

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日から第2節「無生物・生物・人間」へ入ります。人間知性の有限性から、人間生活は有限的なるを得ないと述べています。

 

万象の創造を以って、絶対的全一的生命の分身的自己限定というは、理としては然りと言い得るであろう。とにかく、万象の創造自体を直接見聞した人間がない以上、それは一種の推察に過ぎないといえば、その通りという外あるまい。

 

それというのも、現実そのものと言っても、人知による認知認識の外なく、しかもその認知認識のものが、厳密にいえば人によって違うばかりか、同一の人間の認知認識すら、時によって同一たり能わぬというのが正しく、厳密には極微に変化を免れぬというべきであろう。

 

以上は我々の認知主観の立場からの考察であったが、それはさらに、かかる認知作用の客体たる現実そのものについても言えるであろう。すなわち我々にとって、認知の客体となる諸々の現実的事物についてこれを見るも、それらは刻々時々に極微的変化をなしつつあると言わねばなるまい。

 

そのことの最もよく分かるのは、生物、とくに動物であって、眼前に眺めているのが金魚だとしたら、それらは刻々にその位置をかえるばかりか、つねに水を呼吸し、その中に溶けこんでいる養分を吸収すると共に、吐き出す水には若干の老廃物が含まれているはずである。ここに提起した問題は、一種の知識否定論だと言えないこともあるまい。

 

人間の知識は、平素無意識に考えているほど、厳密な正確度は保し難いというべく、このような事実を時に意識し自省することは、決して無意義ではあるまいと思うのである。人間が知と称するものも、厳密にはそれぞれ極微的に異なっているわけであるが、一応の用は弁じているわけであり、否、むしろそうでなければ、この地上の人間生活は成立しないとさえ言えるであろう。

 

こうした処にこそ、人間知性の有限性があり、人間生活は有限的たらざるを得ないわけである。厳密を期すべき自然科学の世界においてさえ、アインシュタインの如き碩学によって、真理の相対性が唱えられたということは、まことに深省に値するというべきであろう。