土曜雑感 斎藤幸平著「ゼロからの『資本論』」を読む(29)

 

2月3日(土)節分。

 

斎藤幸平の新著「ゼロからの『資本論』」から要点を抜粋し、新しい社会への方向を学んでいます。前回はマルクスがどのような未来社会をパリ・コンミューンに見出したかを「フランスの内乱」から紹介しました。今回からいよいよ「脱成長コミュニズム」です。

 

こうした大転換の先にあるのが「脱成長コミュニズム」です。教育、医療、移動手段などが無償となり、食べ物、衣服、本などもお互いの贈与でやりとりさせるようになっていきます。

また、職業訓練、デイケア、子育てのサポートが十分に整備・供給されることで、誰もが自分の能力を全面的に開花さっせることができる社会です。

 

これこそが「各人の自由な発展が万人の自由な発展のためのひとつの条件であるような「アソシエーション」なのです(共産党宣言)。コモンを基礎とするコミュニズムの原理は、資本主義社会でも常に作用しています。友達の引っ越しを手伝うような損得を抜きにした助け合いもその一つです。

 

そうした実践を友人や家族に限定する必要はないのです。少なくとも、私たちは商品や貨幣に依存しない〈コモン〉の関係性を今よりもっと広げられるはずです。実際に〈コモン〉の領域を広げようとする動きは、「市民電力」の取り組み、インターネットを介してスキルやモノをシェアする「シェアリング・エコノミー」も広がっています。

 

こうした動きを、新自由主義の「民営化」に抗する「市民営化」と呼んでいます。もちろん、「市民営化」が進んでも、いろいろの財やサービスが、貨幣を使って商品として交換され続けるし、その限りで市場は残るでしょう。資本主義の特徴は、商品がすべてを覆ってしまい、ただ資本を増やすために、人間や自然を収奪していくことにあります。

 

「市民営化」と〈コモン〉が大きく広がった時の市場の姿は、現在とはその様相を大きく変えているはずです。なぜなら、人々は商品や貨幣だけに依存することがなくなり、相互扶助が広がることで、利潤獲得を目的とする動機も弱まっていくからです。

 

そのような将来社会で回復される富の豊かさについて、マルクスは有名な一節を遺しています。再び「ゴータ綱領批判」からの引用です。

 

「コミュニズムのより高度の段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働の対立がなくなったのち、労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって、

 

またその生産力も増大し、協同的な富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧き出るようになったのち、そのとき初めてブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏み越えることことができ、社会はその旗の上にこう書くことできるーー各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」

 

ここで描かれているように、コミュニズムでは、「構想と実行の分離」がなくなり、固定的な分業もなくなります。利潤追求のために無理やり生産性を上げて大量生産することをやめるわけです。マルクスが構想した将来社会は、コモンを基礎にした“豊かな”社会です。

 

ここでいう豊かさとは、生産力をひたすら上げていった先にある物質的な豊かさではありません。そうではなく、ワークシェア、相互扶助、贈与によって脱商品化された〈コモン〉の領域を増やしていくことで、誰にも必要なものが十分に行きわたるだけの潤沢さを作り出すのです。