森信三の処女作「哲学叙説」に学ぶ

 

4月3日(月)

 

本ブログは森信三先生の処女作「哲学叙説」(昭和7年12月刊、現代版は致知出版社)の「序論」から、その要点を抜粋して学んでいます。戦前に書かれた森信三先生の「哲学叙説」も何かのご縁です。少々難解ながら今月も続けます。本日は「自覚」すなわち「自己が自己を知る」ことには無限の段階があることを説いています。

 

カントの自覚は、単なる外界認識の基礎としての理論的自覚の域を出るものではない。さらに遡ってデカルトにおいても、その中心をなす「我れ(コギト)思う(エルゴ)故に我れ(スム)あり」は、明らかに自覚を意味するわけであるが、これすらなお理論的自覚に止どまって、何ら道徳的意味を含むものでないことは、彼自身その「瞑想録」その他において名言するところである。

 

かくして我われには、むしろ遡って中世のアウグスティヌスの自覚に、あるいはさらに東洋の世界に、最も深い自覚の意義を見出しうるかと思われるのである。

 

自覚という語はすこぶるあいまいである。この語が今日わが国の学界の一用語となるに至ったのは、前述のように西田博士がフィヒテの「自己意識」を「自覚」と訳されたことに始まるといってよい。

 

フィヒテではこの「自己意識」という語は、これを「自己意識」と訳すよりも「自覚」と訳す方が当てはまるといえるが、しかし、他の思想家に向かうとき、たとえばヘーゲルでは「自己意識」は、自己を他者と識別する段階の意識であって、万有を包摂するような意味での自覚ではない。

 

さて自覚とはこれを一言にすれば、文字通り「自己が自己を知る」というに尽きる。したがって自己を他者から識別するいわゆる自己意識の段階も、すでに一種の自覚であることは明らかである。しかし「自己が自己を知る」ということには、無限の段階がある。

 

真に自己を知るとは、知るところの自己を超えて、絶対そのものとなるのでなければならぬ。これ有限なる我われにおいて、自己を知ることの厳密には不可能なるゆえんである。浄土真宗において、浄土を彼岸的に表現して現実の往生を認めず、この現実の生涯をいわゆる「正定聚」(しょうじょうしゅ)の位に止めるゆえんもこの故である。