「今日は私の生前葬です。よくいらっして下さいました」

 

12月31日(土)大晦日。

 

無事大晦日を迎えました。森先生「一日一語」の12月31日は「念々死を覚悟して真の生となる」です。この一年のおつき合いに感謝します。来る年があなた様にとってよい年になりますよう心からお祈りします。

 

さて私事ながら永年肺気腫で咳と痰が徐々にひどくなり、しばしば呼吸困難に陥る体験に陥りました。原因はタバコの吸いすぎです。この状態では通勤不能に陥るのではないか!最悪の状況を覚悟したのは傘寿寸前の頃。いのち絶えるときは静かに去りたい。

 

葬儀は親族だけで戒名、香典は不要と子どもたちに伝え、さらにその年の11月、賀状は出さない旨のハガキを出しました。思えばこのハガキが同級生、友人、親戚をはじめ、お世話になった方々への今生の「お別れ」の気持ちだったのです。

 

その後、目に止まったのが今は亡き瀬戸内寂聴さんの「死に支度」(講談社)。同書は「群像」2013年8月号から2014年7月号まで1年間にわたり連載された、著者91歳の私小説。51歳で出家したあと、クモ膜下出血や圧迫骨折を患いながら、その度に甦り好きな小説を書き続けてきたのが寂聴さんです。

 

 

「死に支度は、生き支度」と、作家、宗教者、人間として、「いつ死んでも悔いはない。毎日が死に支度」とオビには書かれています。「いつ死んでも悔いはない」は、だれもがそうありたいと願う心境ではないでしょうか。著者は「死に支度」を楽しんでいるかのように、91歳の日々を軽妙に綴り、昨年の11月9日に惜しまれつつ99歳の生涯を閉じました。

 

本書で綴られている数多くの物語のなかで、これぞハイライトと思ったのが84歳(2006年)で文化勲章を受賞した時の話です。

 

「その年の暮、これまで小説家として世話になった編集者を探し出し、お礼の会を開きました。生きていた方々は、ほとんどが参加して下さいました。二百人余りもいて、何十年も逢わなかった人を含めそれぞれに老けてはいたけれど、昔の面影は残っていて懐かしかった。私はその時の挨拶に、『今日は私の生前葬です。よくいらっして下さいました』と言ったのです。そのつもりの会でした。

 

・・・これでいつ死んでもいいとしみじみ深い感慨にふけったものでした。あれが葬式なら、何と晴れやかで楽しい葬式だっただろう、そうだ、今更私は自分の葬式の心配などしないでいいのだ。そう思った時、急に肩が軽くなりました。」

 

たしかに84歳ならだれであれ、いつ死んでも不思議はない年齢です。だから寂聴さんは率直に書いています。「正直に言えば、私はもうつくづく生き飽きたと思っている。我が儘を通し、傍若無人に好き勝手に生きぬいてきた。ちっぽけな躰のなかによどんでいた欲望は、大方私なりの満足度で発散してきた。最後のおしゃれに、確実に残されている自分の死を見苦しくなく迎えたい。」

 

あるいは「90歳を過ぎてからは、今日死んでも不思議はないと思う日がつづいている。毎日が死に支度と思いつづけ、朝目を覚ます度、ああ、また今日も生きていたのかとうんざりする。」

 

寂聴さんは生前葬を終えたからこそ、「生きている毎日こそが、すでに死に支度にくりこまれているのだ。書くことも、人に逢うことも、法話をすることも、食べることさえ、まさに死に支度に入っているのだと思い定めると、妙に心が晴れやかになり、すっきりしてきた。」

 

寂聴さんの著書には、亡くなった親しい作家、著名人の楽しい逸話が数多く登場します。本書にも多くの有名人、たとえば東京都都知事選挙では、日本の将来を案じて細川護熙氏を応援、あるいは宝塚歌劇100周年の祝典歌「虹の橋渡りつづけて」の作詞、「千日回峰行」を二度満行した酒井雄哉阿闍梨さんのまさかの話など。

 

ここでは作家の宇野千代さんを紹介します。
 

「宇野千代さんが、風呂場の鏡に全裸の自分の姿を映し、海から上がったばかりのヴィーナスの姿を模したポーズをとり、まだまだ自分は美しいと満足を味わったすぐあとに、『でもその時、わたしの眼はれっきとした老眼だし、鏡は湯気で煙っていたのだった』と書き添えたのを読んだ時は、思わず吹き出してしまったが、

 

あの時の宇野さんはまだ七十代の終わりくらいではなかったか。宇野さんの米寿のお祝いの会では、風呂に入っている上半身ヌードの大きな写真が舞台の壁一杯に映し出されて、参会者たちを驚愕させたものだった」。