人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

11月2日(金)

 

第19講 松陰先生の片鱗

 

(大意)

 

 松陰は志士ということで非常に厳しい人と考えられていますが、実は大変優

 しい人だったのです。易に「至剛而至柔」とありますが、実際至柔なる魂に

 して、初めて真に至剛になり得るということです。

 

真に偉大な人格であれば、声を荒げて生徒や門弟を叱る必要はないのです。大声で叱らなければならぬということは、その人の貫禄が足りない証拠です。叱らずとも門弟たちは心から悦服するはずであります。

 

優れた師というものは、門弟の人々を共に道を歩む者として扱い、決して相手を見下すことはしないのです。同じ道を数歩遅れて来る者という考えが根本にあるだけです。

 

教師も限りなく自らの道を求めて已まないならば、自分もまた生徒たちと共に歩んでいる、一人の求道者にすぎないという自覚が生ずるはずであります。求道者たる点で、自分と生徒の間に何らの区別もないのです。

 

そもそも人間というものは、偉くなるほど自分の愚かさに気付くと共に、他の人の真価がしだいに分かってくるものです。人間各自、その心の底にはそれぞれ一個の「天真」を宿していることが分かるのです。

 

易には「至剛而至柔」という言葉がありますが、実際至柔なる魂にして、初めて真に至剛を得るのでありましょう。松陰先生の表面に現れた剛の奥に、このような優しい一面があったことは、世人の気付きがたいことかと思います。