二宮尊徳の「二宮翁夜話」に学ぶ(651)

3月16日(月)

(262)当意即妙の語は仁ではない

「齋藤高行がいった。儒学者が仏僧にむかって、地獄の釜はだれが作ったのかと聞くと、仏僧は、郭公(かつこう)が掘り出した黄金の釜と同作だと応酬した、といいます。

面白い話ではありませんか。翁はいわれた。—————面白いことは面白い。しかし、それは知者の言であって仁者の言ではない。褒めるには足らない。」

「生き恥に生きる」の続きです。長くなり恐縮ですが、石川先生の心からの叫びです。ご覧いただければ幸いです。

  口さえもきいてくれない
  背をむけてしまったわが子を
  どうして育てたらよいのかと
  うつむいて苦しむ母よ。
  わたしも 子をもつ親として
  あなたに語れる資格などありません。

  しかし
  どうにもならない子をもつ親は
  どうにもならない親なのである。
  そのどうすることも出来ない
  親と子の〈間がら〉を生きることによって
  親は始めて人間となることが出来るのだ。

  苦しければ
  苦しい〈間がら〉を
  せつなければ
  せつない〈間がら〉を大切にし
  まず、人間としての自分を育てるのだ。
  子どもが望んでいる
  ほんとうの親のすがたは
  どんなことがあっても
  人間として苦しめる
  自分との〈間がら〉の親なのである。

 母親は、ハッとして眼を見ひらくと、大きな涙をポロポロとこぼした。
 
 私もいたらない一人の親である。また、自分の母に対しても、決してよい子ではなかった。いつわり多い子どもの頃を思うと、この盗みぐせのついた子を私はどうしても責められないのである。涙ぐむこの子の母に、許しを乞い、詫びたい思いでいっぱいになってしまった。

 私が今日あるのは、いつわりの多い私を、それをそのままに、自分の子として抱きなおし、“生き恥”を共に生きてくれた、母のあたたかい涙があったからなのである。
 母の心は、子どもを信じて疑わない不動心がなければならないのではなかろうか。
 最近、おかっぱの女の子から「先生お元気ですか」という通知をもらった。隠すことのないハガキに落ちついた字であったことがうれしかった。