「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月12日(木)東大寺二月堂お水取り。

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の3回目で、時空を「実在的生命の表現と見る」と述べています。

 

それゆえ以下、時・空の考察に当たっても、この書においては、これを単に現象界成立の「形式」とのみ見ないで、それぞれの実在的生命の表現と見ようとするのである。もっともその場合、時間と空間とは、それが実在的生命と関わる趣の上には、かなり大きな差のあることを知らねばなるまい。

 

それというのも空間は、いわゆる外官の認知形式であって、それの実在的生命への根ざしは、時間ほどには深くないといえよう。それにも拘らず、空間自身もやはり実在的生命に関わり、否、その外的現象的表現というべきであろう。

 

同時にそれ故にこそ、時・空は根本的にその性格を異にするにも拘らず、互いに相交錯することによって、現実界というものを形式実現することが可能なわけであって、もし時間と空間とが単にその性格を異にするのみでなくて、その根底に何らかの意味における共通的基盤ともいうべきものが全欠しているとしたら、この現象界そのものの成立すら、不可能に相違あるまい。

 

わたくしには今一つ言うべきことがある。それは空間を単なる現象界成立の形式とのみ見ないで、その内容との相即において一種の“全一”と見るということである。それは空間を単に無内容な形式とのみ見ないで、そこに見られる現実的世界との相即において見ようというわけである。

 

ではこれに対して時間は如何かというに、これもまた同様であるばかりか、時間は単に無内容な形式ではなく、現実的内容と相即的な趣はさらに一段と深いといわねばなるまい。何となれば、時間は空間以上に具体的であり、それだけにまた実在的生命への関わりもより深いというべきだからである。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月11日(水)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の2回目で、カントの時空論との違いを“いのち”の自証と展開の立場から説明しています。

 

時間と空間との密接な関係を、哲学史上最も明らかに示したものは、一応カントと言ってよいであろう。いやしくも偉大な哲学者といわれる人にして、時間が空間と不可離な関係にあることに気づかなかった哲学者は、一人として無いであろうが、カントほど明確にこれを意識し、究明した哲学者は彼以前にも、彼以後にも無いといってよいかと思う。

 

時間と空間の密接不可離性がかくも明確かつ周到に究明され、論究されているが故に、何人も改めてこれを取り上げる気になれず、カントの所論を完全に同意しえぬものがあるにしても、ともかくそれを踏襲し自余の問題の究明に精力を向けていると見てよいであろう。

 

わたくしもまた、ほぼ同様の立場に立つと言ってよいが、その立場はカントのように、自然科学的認識の成立根拠を、学問的に証明しようというのではなく、どこまでも自らの生の自証に徹しようとする立場であり、「世界創造」というが如き極大無限の考察究明までも、結局は自らの“いのち”の自証の徹底と究尽以外には途なしとする立場からは、カントのそれとおのずから異なるのはけだし当然という他ない。

 

にも拘らず、時間と空間の関係という点からは、もとよりカントと別の見解をとり得ないことは言うまでもない。随って一応はカントの時空論を踏襲受容する他ないであろうが、根本的に異なるのは、カントにあっては、時・空は現象界の認識成立のために、二大先験的形式とされていることは周知の事柄である。

 

ただこの場合カントは、特有の認識批判の立場に立つがゆえに、空間はもとより時間さえも、単に現象界成立のために不可避の根本形式とするに留まるが、わたくしのように哲学的立場を“いのち”の自証とその展開と考える立場に立てば、時間は単に現象界を認識せんがための、単なる形式とのみ考えられないのであって、そこには実在的生命のもつ、“いのち”の鼓動にも比すべき一面があるとさえ言うべきかと思うのである。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月10日(火)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の2回目で、「時の最根本的、本質的な究明は“いのち”の自証の他ない」と述べています。

 

時の考察上でさらに重大なのは、永遠との関係であって、これはいわば絶対の「生」(いのち)を、時との関係において、時の側面から捉えようとするもので、これまた至難と言われるゆえんである。

 

時の問題が一切の哲学上の問題の中で、最至重にしてかつ最至難の問題とされる、真の根本的因由ともいうべきは、畢竟するに時というものが、「生」の最端的な微表と言ってよいからである。例えば「生」ある限り、一刻といえども留まることのない、呼吸並びに脈博は、最も切実に、時を知らせるといえようが、これらの両者は自己の生の最端的な微表だからであろう。

 

かくして時の問題が、古来哲学上最難の問題とされるのは、結局我々にとって「生」の最端的な微表だからであり、それは「生」の把握と究明が、最至難な問題だということの、一つの端的な微表といえるからであろう。随って時の最根本的、本質的な究明は、結局“いのち”の自証の他ないのである。

 

かかる“いのち”の自証は、時間の究明の際にはひとり“いのち”の内観のみではなく、さらにそれの客観的自証をも包摂しなければならない処に、時というものに特有な独自の性格があるといえよう。そのような時のもつ客観的側面を考察するには、まずそれの空間との関係の考察から始めねばならない。何となれば、空間は時間と比べては、一応客体的なものと言えるからである。

 

わたくしが“いのちの自証!という場合、それは常にその内面に客観性を包蔵しているが、しかしこのように空間と関係し、否、時々刻々、自らの空間と交錯せしめ、さらにそれと切り結ぶ場合、その時の時間はきびしくも空間と出逢い、これと切り結ばざるをえない。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月9日(月)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の1回目で、哲学上「時」に関することがいかに至難な問題であるかを説いています。

 

「時」とはそもそも如何なるものであろうか。これは哲学上おそらくは最難の問題といってよいのではあるまいか。現にアウグスチヌスほどの人にして、その「告白録」の最後の三章の中で、幾たびも言うている事の上にも証せられるであろう。

 

では、何ゆえ「時」の問題は、哲学上かくも最至難の問題とされるのであろうか。それには、さし当たって、空間との関係という側面から、全く根本的にその質を異にしながら、しかも密接不離の関係にある側面からの考察が必要であろう。

 

この場合には、「時と空間」というよりも、「時間と空間」という方が、やや応わしいと思われるが、そこには、同じ「時」でありながら、永遠との関係を考察する場合には、「時と永遠」とする方がしっくりと受け取れるかと思われる。

 

このような点一つとってみても、この「時」というものの性質が、如何に複雑微妙であって、まことにその端倪(たんげい)を許さぬことの一端は伺えるかと思うのである。もっとも、ヨーロッパ語の場合には、空間との関係の場合も、永遠との関係の場合でも、このように微妙な顧慮の必要はないわけである。

 

それがかかる微妙なニュアンスの差を現ずるのは、そもそも時間という語自身が実は邦訳であるからだと思う。純粋な大和言葉としては、「時」(とき)であって、それが本になって時節、季節等、時を意味する種々の表現が生じたものと思われる。

 

時の考察が至難とされるのは、このように単に異質的な空間との関係が、密接不可離なばかりか、「時」そのもの、あるいは時間そのものの根本的な様態ともいうべき、過・現・未の三様態があり、しかも三様態そのものの考察自身も、実に微妙かつ複雑であって、単なる知性の分別知を以って、たやすく分析するのを許さぬものがあるからと言えよう。

 

土曜雑感 詩集「念ずれば花ひらく」(坂村真民)②

 

3月7日(土)

 

本日は「タンポポ魂」「二度とない人生だから」、さらに「あとがき」の2回目です。

 

タンポポ魂

 

  踏みにじられても

  食いちぎられても

  死にもしない

  枯れもしない

  その根強さ

  そしてつねに

  太陽に向かって咲く

  その明るさ

  わたしはそれを

  わたしの魂とする

 

 

二度とない人生だから

 

二度とない人生だから

一輪の花にも

無限の愛を

そそいでゆこう

一羽の鳥の声にも

無心の耳を

からむけてゆこう

 

二度とない人生だから

一匹のこおろぎでも

ふみころさないように

こころしてゆこう

どんなにか

よろこぶだろう

 

二度とない人生だから

いっぺんでも多く

便りをしよう

返事は必ず

書くことにしよう

 

二度とない人生だから

まず一番身近な者たちに

できるだけのことをしよう

貧しいけれど

こころ豊かに接してゆこう

 

二度とない人生だから

つゆくさのつゆにも

めぐりあいのふしぎ思い

足をとどめてみつめてゆこう

 

二度とない人生だから

のぼる日しずむ日

まるい月かけてゆく月

四季それぞれの

星々の光にふれて

わがこころを

あらいきよめてゆこう

 

二度とない人生だから

戦争のない世の

実現に努力し

そういう詩を

一篇でも多く

作ってゆこう

わたしが死んだら

あとをついでくれる

若い人たちのために

この大願を

書きつづけてゆこう

 

 

「あとがき」から。

 

 さて、今年のはじめひどい腰痛にかかって、寝返りも来るしいほどの日が続いた。そうしたある夜明け、天啓のように『念ずれば花ひらく』と題する詩集を出そう、『念ずれば花ひらく』というエッセイ集はあるが、肝心の詩集はない。

 

 そう思いつき、かねて要請されていた、サンマーク出版にお頼みしてみようと、編集部の斉藤竜哉さんに、手紙を出したのだった。快諾していただき、この詩集を、もっと若い人たち、特に二十一世紀の日本を背負って立つ方たちにも読んでいただけるようにと、詩の選出を要望したのであった。

 

 詩は未来を切り開くためのものでなくてはならぬ。というのが、詩を書き続けているわたしの願いであり、祈りなのである。だからわたしの詩はほとんど夜明けに生まれている。宇宙の波動が一番多く強く落下するのは、夜明けである。

 

 わたしはこの波動を、念波と言っているのであるが、念ずるというのは、前向きに生きようとすることであって、希望なのである。どん底に落ちても、念じながら這いあがってくる不屈の魂である。

 

わたしのいるところをタンポポ堂と名づけたのも、あのタンポポが持つ明るい想念を、わが想念としたいからである。ドイツ語の詩集ができた時も、題名をただ『タンポポ』とした。タンポポは世界の花、いや地球の花である。「 念ずれば花ひらく」の八字十音の真言を、

一番よく知っているのは、タンポポなのである。

 

選んだ詩を並べた原稿を送ってくださったが、その最初の詩が、「タンポポ魂」であった。本当に嬉しかった。地球の存在する限り、タンポポは咲き続く強い野草だからである。

農家の方が言われる。いくら農薬をかけても、タンポポだけは根絶えできませんと。

 

これからの人間も、どんな困難な時代が到来しても、再起再生するような強いものを持たねばならぬ。わたしは、そう祈り願って詩を作ってきただけに、どうかこの詩集を身辺に置いてもらいたいのである。(つづく)

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月6日(金)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第5節「善悪の彼岸への希求」の4回目で、人間は「絶対的全一生命の中に抱かれてきたことに気づかなかったに過ぎない」と述べています。

 

かくして、「生」の絶対的本源への帰還、換言すれば、己が「生」の根底に永劫に生き続けている絶対全一生命との直続の自覚に達するためには、それに値するだけの不幸を、この地上において支払わねばならないのが常だと言ってよい。

 

そのような地上的不幸は、いわば雲の切れ間から陽光を仰ぎ見るように、幾多の逆境、即ち地上的な不幸の数々を通して、初めて自己の「生」の絶対的本源との直続性を自覚するに到るといってよいであろう。

 

かくして宗教とは、自らの有限的「生」と、その絶対的本源たる全一生命との直続の自覚とも言えるであろうが・・・人間は出生のそもそもの始めから、かかる有限的「生」と絶対的「生」との直接的な直属関係にありながら、それと気づかずにいるわけである。

 

即ち我々自身は、背後から絶対無限の恩光に照らされていながら、それと気づかず、あたかも自己の力で己が路を歩んでいるかに考えていたのが、自己の前に無限の絶壁の立ち塞っているのに当面し、止むなく後を振り返りみるに及んで、初めて自分の背後から絶対無限の温光が照射していて、わが道を辿り得たのだと気づくにも似ているといえるであろう。

 

かくして我々は、自ら被造物の一員として、その有限性を免がれえないにも拘らず、何とかこのような制約限界を超えて、自らの「生」の本源に還りたいとの希求を抱いているのであるが、わざわざ求めるには及ばぬことであって、すでに絶対的全一生命の中に抱かれているのに気づかなかったに過ぎないのである。

 

今や残り少なきこの世の「生」」の終末に近づいたからであろうが、如是の真理に開眼せしめられたことは、生涯この一道を辿ってきたわが身には、無上の幸慶という他なく、げに臨終一念の念仏によっても、弥陀の救いに与かり得るとする教説の真実なることを、ここに身を以って承受せしめられるとの想いの切なるものがあると言えよう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月5日(木)啓蟄。

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第5節「善悪の彼岸への希求」の3回目で、宗教的希求は己が「生」への希求であり、還帰復活への希いだと述べています。

 

だが、ひとたび観点を翻して考えれば、これほど「生」にとって、至深な希いは無いとも言えるであろう。何となれば、飢えの迫った時、我々が一椀の食を求めて止まないのも、切実かつ深刻な「生」の希求といえるであろう。

 

しかしそれは考えようによれば、この醜い自己の個人的「生」の持続延長を求める希いに過ぎないわけでもある。随ってその「生」の終末は、単なるその生物的「生」の断絶であり死滅の他ないわけである。

 

しかるにかの宗教的希求に到っては、いささか趣を異にするものがあり、あるいは質的観点からは、そこには正に天地懸隔するほどの“ひらき”が観ぜられるとも言えるであろう。何となれば、その場合至心に希求されているものは、己が「生」の本源への希求であり、それへの還帰復活への希いだからである。

 

そこには、今一つの比喩を借りるとすれば、己が「生」の大御親に還って、永遠にその懐に抱かれようとの、かの嬰児の希いにも似た、至心の希求が求められていると言ってもよい。かくして、被造物の一つとして、その有限性を免がれ得ない人間が、その「生」の本源を求めて、それへの帰還を求める、かかる至心の希求は当然の希いというべきであろう。

 

かかる希いを切実に抱き続ける人こそ、この地上の生活を意義深く生きる人というべく、これに反して、かような問題については、終生ほとんど関心を持つことなくして、この地上の「生」を終える人の一生は、実に不幸な人生というべきであろう。

 

しかしながら、この世にあってすべて高貴なるものは、これを得んがためには、それにふさわしいだけの値を支払わなければならぬというのが、免がれ得ない根本制約であり、約束と言ってよいであろう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月4日(水)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第5節「善悪の彼岸への希求」の2回目で、「食」と「性」は生物に特有の根源的現象であるが、永却なるものを求めるのは、人間に特有の現象と述べています。

 

人間にとって、その「生」を持続する上には、重大な「生」の条件があるわけで、それは他ならぬ「食」であって、これなくしては、物・心何れの面において、如何に超凡卓出の資を持っていようと、その「生」を持続することの不可能なことは言うを要しないわけである。

 

これは人間のみに特有の制約とは言えず、この地上に生を与えられたすべての生物に通じる根本的運命と言ってよい。随って現実にはいかに深刻であろうとも、そのためには他の生(いのち)を殺すことによって、己が生を保つ場合すら少なくないとしても、これを咎める資格のないことは、よく承知しているわけである。

 

あるいはまた、我々は「性」の本能を賦与されていて、そのために悩む苦悩は、時としてはかの「食欲」に劣らぬほどだともいえよう。しかしこれに対して、人間に特有の悩みとは言い得ないであろう。何となれば、雌・雄相引き相求めるのは、その様式の上には千万無量の差はあるにしても、この地上に「生」を享けたるものには、共通する根源的現象と言えるからである。

 

しかるに、人間が自らの有限性を全脱しえないにも拘らず、永却なるものの「生」(いのち)に通じる一路を求めんとする切なる希求と努力に到っては、これぞ洵に人間に特有の現象だと言ってよいであろう。しかもこの一事たる、如何に至難のことであろうか。しかしこれも想えば、実に当然至極のことと言うべきであろう。

 

何となれば、有限存在たる人間にとって、絶対不可能ともいうべき、有限性の突破、ないし超越が合意せられるがゆえである。換言すれば、人間が自らに負わされている最根本的制約たる被造物性を、何らかの趣において超えようとする希求だからである。随って考えようによっては、これほどの冒涜はないとも言えるであろう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月3日(火)ひなまつり。

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第5節「善悪の彼岸への希求」の1回目で、有限的「生」を超えんとする努力、それが古来「宗教」の名で呼ばれてきた生き方と述べています。

 

人間が有限存在であるのは、我々もまた被造物の一種でしかないからである。その生(いのち)は、広大無辺にして真に涯際なきこの大宇宙の間において、古来心ある人々は、われ人間の生の果無さを、朝に生まれて夕べに死する“かげろう”のそれにも比しているが、それは必ずしも誇張の言とは言い難いであろう。

 

ひとたび大観の立場に立つとしたら、たちまちにしてこの自己は極大無限界裡の一員たることに目覚めるであろう。もし人あって常に如是の知見を踏まえながら、その日々を生きるとしたら、その時、その人の「生」は、初めて真の充実を得るであろう。

 

同時にそのような「生」を生きることこそ、古来宗教的生活と呼ばれてきたものであり、また如是の生(いのち)を生きつつある人を称して宗教者と呼び、最近の用語によれば、これを宗教人と呼ぶもまた不可ではあるまい。

 

しかし人間にとって、真に宗教的「生」を生きんがためには、今一つの途のあることを知らねばなるまい。一言でいえば、内観自省の方向に徹して生きる途といってよく、常に善人たらんことを欲しつつも、静かに自省の鏡面上に映じて見る時、そこに映現するものは、善人どころか、醜悪極まりない自己の姿ではないか。

 

しかも多少の修養努力を以ってしたくらいでは、到底改め得ないのみか、むしろ時と共にいよいよ自己の本性の醜悪なることを知らしめられると言ってよく、まさに親鸞の「浄土真宗に帰すれども、真実の心ありがたし。虚仮不実のわが身にて、清浄の心さらになし」との「悲嘆述懐」は、そぞろ我が心根に滲み透るの念を禁じ得ないのである。

 

かくして、古来人類のうち卓れた人々によって、有限的「生」を超えんとする努力が為されてきたのであって、これ古来「宗教」の名によって呼ばれてきたものであり、人間に特有の生き方と言ってよいであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月2日(月)

 

今月も森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介します。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第4節「善・悪の相対性」の3回目で、「善・悪」の至深なる趣を一つの比喩をもって説明しています。

 

かくして、「善・悪の相対性」ということの至深なる趣を、今仮に一つの比喩を以って表すとしたら、それはある荒天の日に出発した一隻の小舟に乗り合わせた人々が、舟の進行と共に、左右の船べりに打つかる波浪は、しばしば船べりを越えて舟中へ浸水せんとばかりの中に、船頭はもとより乗客一同も、心の底から憂慮しつつ、ほとんど物言う者すらなきまま、舟は揺れにゆれつつ、波間を掻い潜りしつつ、それでもやがて港に近づかんとする気配を、身に沁みて痛感しつつあるにも比せられようか。

 

なお序でながら、真の宗教的世界と称せられるものは、とにもかくにも、先方の港に入港できるとの、深い安堵感にも似た趣がないでもあるまい。だから宗教を以って、かかる安堵感のみと考えるのは、おそらくは当たらざること遠きものというべきであろう。

 

では真の宗教的信とは如何なるものかと言えば、いま前掲の比喩を受けて試みに言うとすれば、かかる荒天の日に小舟を以って、かかる荒波の中を、ついに辛くも目指す港に着けたことは、根本的には深い安堵ではあるが、それに甘んじないで、わが荷物をまとめるのみか、船酔いの人々を扶けて、その人々の荷物をまとめて下船し、辛うじてわが身の大地を踏み得たことに、衷心より謝念を抱き、船員の人々に対しても、それぞれ謝辞を述べつつ、おもむろに辞去する一人の客人の心境とその態度に比せられるであろうか。

 

だが、心すべきは、比喩はどこまでも比喩であって、それよりもそこに到るまでの海上の危ない航行の比喩は、いわゆる「善・悪の相対性」というコトバの意味する内容が、いかに深刻極まりなきものかということへの、多少の示唆たり得たかと思うのである。

 

同時にその役目さえ、多少とも果たし得たとしたならば、わたしとしては、それで一応は充分といってよい。即ち、善に徹せんとして、その至難なるを歎き、また悪については、その限りなき根ざし深さを知って、まさに精魂の尽き果てんばかりなる「生」の苦闘を舐めて、初めて体し得るものかと思うのである。