「バカ」を肯定する「ノーリスペクト社会」の到来
2月21日(土)
かつて「日本人」と「勤勉」はセットであった。しかし勤勉なる日本人は神話と化した。実態は学び嫌いな日本人である。なぜこのようになってしまったのか?その理由を明らかにしつつ、日本人の向学心を取り戻すための方策を提言するのが「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(斉藤孝著、2008年講談社)である。
「バカ」を肯定する「ノーリスペクト社会」の到来
「バカ」とでも表現するしかない事態が日本を侵食している。ここでいうバカとは、学ぼうとせず、ひたすら快楽にふけるあり方のことだ。学ぶ意欲が内発的に起きてこない、学ぶ道があるのにゲームやメールに時間を注ぎ込んで疑いを持たない日本人が増えている。
では、なぜ学ばなくなったのか。それは「リスペクト」という心の習慣を失ったからである。かつての日本人には、何かに敬意を感じ、憧れ、自分をそこに重ね合わせていくという心の習慣が自然に身についていた。それを象徴するのが仏教の教えである「仏法僧の三宝を敬う」だ。
ところがある時期を境に、日本では「バカでもいいじゃないか」という空気が漂い始めた。そこには教養への敬意はないし、学ぶべき書籍の価値もわからない。先生への畏敬の念もない。つまり、「ノーリスペクト社会」」が到来したのだ。自分という核を持たないまま、ひたすら「何か面白いものはないか」と探し回っている。世の中はこれを「自分探し」と称している。こういう風潮は1980年代頃からだ。
こうした問題を見ると、今は「心の安定」を失いやすい時代なのではないかと思われる。こういう世の中になったのは、ここ20年のこと。これは「心の不良債権」だと言えよう。リストラが当たり前という殺伐とした社会のあり方が、心にまで影響を与えているのである。
現代日本人の心のあり方は、米国の若者のそれを反復している面がある。戦後のライフスタイルは、完全に米国文化に支配されてきた。「アメリカン・マインドの終焉」の著者、アラン・ブルームは分析している。「本には縁のない学生たちも、音楽となると彼らの情熱の対象であり、音楽ほど彼らを興奮させるmのはない。彼らが願っているのは、ただ自分だけの世界にひきこもることだ」。これはまさに、今の日本の若者そのものだ。
教養を身につけるーー哲学や教養が生きる力の根源となる
1950年まで国立大学の予科として存在していた、旧制高校の学生から学ぶことが多い。旧制高校では、文系理系を問わず、哲学が基礎教養として共有されていた。また第一外語は英語だけではなく、フランス語やドイツ語などを選択する学生も相当数いた。欧州の国がもつ思想の深さ、文化の豊かさに触れる人が数多くいたのだ。
哲学を「学ぶ」ということは、自分の思考の基本スタイルを作る作業でもある。旧制高校生の中には、大学卒業後に企業人、経営者になった人も少なくない。経営者に強靭な精神が求められる。哲学の基礎があったからこそ、その後の人生を揺らぐことなく歩めた人も多いはずである。
教養主義をくぐり抜けてきた最後の世代は、今80歳代になっている。日本経済が最も発展した時代に会社を経営してきた彼らが、日本の経済・文化をリードしてきたことは紛れmぽない事実だ。彼らは哲学や一般教養を学び、それによって精神的タフさや粘り強さ、勉強することを楽しむ向学心を身につけていった。
日本全体をレベルアップさせたのは、そういう若者時代を過ごした人たちであることを、現代世代は看過してはならない。教養に加え、もう1つ注目すべきは価値観の問題だ。だれもが自分の利益を優先させる傾向にあるが、旧制高校には、自分の成功より優先すべきものがある、という倫理観があった。
例えば、自分の置かれている状況を常に意識し、自分が日本に対して何ができるかを考える。こういう要請を、自分自身に課していた。今後の日本には、金儲けの才能を持つ人は多く出現するだろう。だが、自分が日本を支えるという気概や、多くの人を雇用して幸せにしたいという意識を持つ人は、どれだけ現れるだろうか。
教養をリスペクトする人が社会のリーダーとなり、成功していく。これが明治以降の社会だった。だが今は、就職にしても「学歴不問」を打ち出す企業が登場してきた。社会的に大学教育を軽視し、身につけた教養を無視する傾向が続けば、中高生は勉強しなくなるだろう。
日本人の最大の財産。それは脈々と受け継がれてきた「学ぶ心の伝統」である。学ぶ心は、ひとりでに身につくものだはない。学ぶ先人の姿に憧れを感じて、自分も学びたくなるのである。こうした「憧れの連鎖」が、世代から世代へと受け継がれて社会は幸福だ。