人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月18日(木)

 

第9講 読書

 

(大意)

 

 読書の人生に対する意義は一口で「心の食物」であり、人間生活の半ばを占

 めるほど重要なことです。「偉大なる実践家は、大いなる読書家である」とい

 うことです。

 

人生における深刻な経験は、たしかに読書以上に優れた心の養分です。が同時に注意を要するのは日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書に照らして初めてこれを見出すことができるのです。

 

もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付きがたいと言えます。したがって、人間生活の半ばを読書が占めるべきだと言えます。

 

他の半分は、かくして知り得たところを実践して、それを現実の上に実現していくことことです。もちろん「半ば」というのは、内面的な釣り合の上から言うことで、時間の上から言うことではありません。

 

いやしくも真に大志を抱く限り、それを実現しようとする以上どうしたら実現できるかと思いをくだく結果、必然的に偉大なる先人たちの歩んだ足跡を辿り、その苦心の後を探って見ること以外に道のないことを知るのです。

 

真に志を抱く人は、昔から分陰を惜しんで読書をむさぼり読んだものであり、否、読まずにはいられなかったのです。諸君は差し当たり「一日読まざれば一日衰える」と覚悟されるがよいでしょう。

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月17日(水)

 

第8講 学問・修養の目的

 

(大意)

 

 学問・修養の目的は「人となる道」=人間になる道を明らかにすることです。

 具体的には「日本国民としての道」を明らかに把握すること。自分の側面か

 ら言えば、自分が天から受けた本性を実現する途を見出すことです。

 

物事というのはその根本眼目を明らかにしない限り、いかに骨折ってみても、結局真の効果は挙がらないものです。・・・眼目を誤ると、努力がつづかないのです。

 

物事の持続が困難だというのは、真の目標をはっきりつかんでいないからです。最後の目標さえつかんでいたなら、途中でやめようにもやめられないからです。

では一体何のために学問修養をするかということです。

 

ひと口でいえば、人間になるための道を明らかにするためです。たとえ素質や才能は豊だとしても、学問修養によって自己を錬磨しようとしない限り、その才能も結局は朽ち果てる外はないでしょう。

 

天分を発揮するには自分を越えた何物かに、自己をささげる気持がなければできないことです。諸君らはどうしたら国民教育界のために貢献しうるような人間になれるかを、常に考えることです。

 

人間界のことというのは、一人の人間が自己に与えられた職責に対して、真に深く徹していたならば、その足跡は必ずや全国各地の同じ道を歩んでいる幾多の人々の参考となり、導きの光となるはずです。

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月16日(火)

 

第7講 志学

 

(大意)

 

 「志学」は論語にある言葉です。すなわち「吾十有五にして学に志す」で、

 孔子自身が学問求道のプロセスを述べた最初の一句です。各自が天から受け

 た力を出し切るところに人生の意義があります。

 

 

孔子の自覚的生涯はこの志学に始まったのです。それでは孔子のいう「学」の内容はいかなるものかということです。すなわち学とは普通に勉強を始めるということではなく、いわゆる大学の道に志したということです。

 

大学の道とはわが身を修めることを中心に、ついには天下国家をも治めるに至る人間の歩みについてです。つまり孔子は十五才の若さで一生を見通し、自分の生涯を「修己治人」の大道にありとしたのです。

 

本来から言えば、諸君らが本校に入学されたということは、そのこと自身がすでに生涯の学問修養をもって、この日本国の基礎たる国民教育に貢献し、民族の前途に寄与するだけの決心がなくてはならないはずです。

 

果たしてそのような決心をおもちでしょうか。

 

そこで自分が天から受けた力の一切を出し切るところに、社会のお役に立つ外はないと言えましょう。天から受けた力を出し切るためには偉人の伝記を読むことです。そのような一生をたどらせた偉人たちの内面的な真の力を突き止めることです。

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

修養の目的は「人間になる道」を明らかにする

 

10月17日(水)

 

第8講 学問・修養の目的

 

(大意)

 

 学問・修養の目的は「人となる道」=人間になる道を明らかにすることです。

 具体的には「日本国民としての道」を明らかに把握すること。自分の側面か

 ら言えば、自分が天から受けた本性を実現する途を見出すことです。

 

物事というのはその根本眼目を明らかにしない限り、いかに骨折ってみても、結局真の効果は挙がらないものです。・・・眼目を誤ると、努力がつづかないのです。

 

物事の持続が困難だというのは、真の目標をはっきりつかんでいないからです。最後の目標さえつかんでいたなら、途中でやめようにもやめられないからです。

では一体何のために学問修養をするかということです。

 

ひと口でいえば、人間になるための道を明らかにするためです。たとえ素質や才能は豊だとしても、学問修養によって自己を錬磨しようとしない限り、その才能も結局は朽ち果てる外はないでしょう。

 

天分を発揮するには自分を越えた何物かに、自己をささげる気持がなければできないことです。諸君らはどうしたら国民教育界のために貢献しうるような人間になれるかを、常に考えることです。

 

人間界のことというのは、一人の人間が自己に与えられた職責に対して、真に深く徹していたならば、その足跡は必ずや全国各地の同じ道を歩んでいる幾多の人々の参考となり、導きの光となるはずです。

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月15日(月)

 

第6講 人生の始終

 

(大意)

 

 人生の道半ばの四十才までは自己研鑽の修業時代、その前後で自分の人生に

 ついて大体の見通しをつけなければなりません。四十代、五十代が仕上げ期

 です。

 

人生を山登りに喩えますと、四十才はちょうど山の頂のようなもので、わが来し方もしみじみ振り返って見ることができます。また後半生をいかに生きるかについても、仄かに見え始めてくるようです。

 

よほどの人でない限り、四十才近くまではお互いに迷いやすいということです。

同時に人間は四十才の声を聞いて人生の秋風に身を曝しながら、人生の道について迷っているようでは困るということです。

 

今人間の活動を六十才頃までと考えますと、そのうち二十才までは志を立てる時で、将来社会のために役立つ人間になろうとする志は十五才頃から遅くも二十才までに確立しなければなりません。

 

それからの二十年はその人の後半生の活動を左右すると言ってようでしょう。かくして四十代、五十代という人間の仕上げ期の活動は、それまでの前半生において準備してきたところを社会に貢献する時期です。

 

諸君は人生の歩みとしてはまだ一歩も踏み出してはいないのです。諸君らの真の人生の旅は、まさに卒業と共に同時に始まるのです。二十年後の四十才前後から、本舞台にかかるのです。卒業などというのは物の数にもならぬわけです。

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月12日(金)

 

第5講 教育者の道

 

(大意)

 

 教師自身が常に学び続けるのでなければ、真に教えることはできないのです。

 教えることはすなわち学び続けること。教育の眼目は相手の魂に火をつけ、

 その全人格を導くことです。

 

「人を教えることは、常に学び続ける」。これは必ずしも容易なことではありません。何人もよく口にすることですが、それだけにかえって耳に馴れて、その意味するところがいかに深くかつ厳しいかが見逃されがちになります。

 

耳馴れた言葉は実は曲者であり、その言葉が常に新鮮な響きをもってわが心に響くということは、よほど優れた人で、容易には至り得ない境涯と言ってもよいでしょう。

 

一人の人間の魂を目覚めさせるということは、実に至難中の至難事です。一応知識内容を授けることでさえ、必ずしも容易とは言えないのです。いわんや相手の魂を目覚めさすということは!

 

「一寸の虫にも五分の魂」というように、眠っている相手の魂が動き出して、他日相手が「先生に教えを受けたればこそ今日に私があります」と、かつての教え子から言われるほどの教師になることは容易なことではないのです。

 

かくして幼い子どもたちの魂を目覚めさせるという重責につく以上、何よりも大切なことは、生涯を貫いてひたすら道を求め、そこに人生の意義を見出すのでなければならいのです。

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月11日(木)

 

第4講 生を教育に求めて

 

(大意)

 

 教育は次の時代に国家をその双肩に担って民族の重大使命を実現してくれる、

 力強い国民を創り出す国家的な大事業で、あらゆる職業の中でもその意義の

 重大なるものはないと言えます。

 

私達は教育が「国家の運命を支配する」という言葉に思い上がってはならないのです。何となれば、その仕事の意義が尊厳であればあるほど、それに従事するものの資格も卓越していることを要求されるからです。

 

諸君らは二度とない人生を、このような国家の運命を左右する国民教育の道に投じたわけであります。このことは今後の研修の上に容易ならざる重荷のかけられていることを意味するのです。

 

たとえば、もし教師が怒りの情を抑制しかねて、生徒を殴ったとしたら、それは暴行行為であり大問題になるでしょう。すなわち教師の一言一行は社会の厳しい批判の対象になるのです。

 

教育者への物的待遇は比較的薄いのですが、社会が精神的に教育者に期待するもののいかに大きいかを痛感させられるのです。私も諸君らと同じように生を教育に求めつつある一人であります。

 

すなわち二度とない人生において、自己の魂の道を、教育に求めつつある人間であります。このことを深省する時、この教育という一道において、真に安心立命のできる境涯に達しなければならぬと思うのです。

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月10日(水)

 

第3講 生をこの国土にうけて

 

(大意)

 

 この国に生まれて日本民族の一員になれたのは、私達の父母が日本人だから

 であり、日本人としての両親の胎中に、一個の生命として宿ることができた

 からです。

 

 

われわれは人としてこの国土に生をうけたことは実に幸せなことですが、日々の生活の中でこの点をほとんど気付かずに日を送っているのです。この国土は気候が穏やかで人々の気質も穏やかです。

 

さらに国土が島国であったことが大きく働いています。他国と地続きの国のように外敵の侵略を受けなかったことが穏やかな歴史を証明しています。このように平素自分が受けている恩恵について容易には気付きがたいのです。

 

それというのも、生まれ落ちるや否や耳にするのは日本語であり、その眼に入るのは両親を始めみな日本人であり、眼に入る山河大地もまた日本の国土です。

 

われわれの血液は、父母の血を受けたことを語るもので、「孝経」に「わが身は父母の遺体」と言われるゆえんです。われわれ一人ひとりは、それぞれ民族の血液を宿すと共に、さらに歴史の中から生まれてきたわけです。

 

このように考えますと、日本民族の一員として、この国土に生まれてきたということは、無量の因縁の重なり合った結果であって、それこそ民族の歴史に深く根ざしをもつわけです。

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月9日(火)

 

第2講 人間として生まれて

 

(大意)

 

 人間は人間として生をうけたことは無上の喜びであり、多少なりとも感謝の 

 念が起こらない間は、真に人生を生きるものとは言いがたいのです。

 

人生の根本問題は人としてこの世に生を受けた意義を自覚し、真に生き甲斐ある日々を送ることです。そのために自分自身を深く知らなければなりません。

すなわちいかなる力で人として生まれてきたかということです。

 

この地上の生物の数は、人間のそれと比べていかに多いか、実に測りがたいことです。しかも人間として生を与えられたわけですが、何らわが力によらないことで人身を受けたことに対して、しみじみと感謝の心が湧き出るはずです。

 

「この講義の第一歩を踏み出すに当たって、この根本問題から出発せずにはいられないのです。われわれはいかなる力によって人間として生まれてきたのか。この世に生まれたのは自分の努力とは関わりなく、自己を超えた大いなる力によってのことです。

 

私の推測に誤りなければ、この大問題に対して諸君たちは深く考えた人は少なかろうと思うのです。・・・私自身も今や四十才という人生の峠を越えかけた昨今に至って、ようやく自分の魂の問題となりかけてきたのです。

 

人身をうけたことに対する感謝の念は、昔の人が言った「人身うけがたし」という深い感慨から初めて発し来たるものと思うのです。しかるに現代の人々は人身を与えられたことに対して、深い感謝の念を持つ人は少ないようです。」

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月8日(月)体育の日。寒露。足袋の日。

 

第1講 学年始めの挨拶

 

(大意)

 

 人と人との出逢いの不思議を「現実の必然」として捉え、「もろもろの因縁を

 おろそかにしてはならぬ。これは天命だ」。これを素直に受け入れるところに

 心の根本態度が確立するのです。

 

「この一年間、諸君たち(数えの18才)の修身科を受け持つことになったということは、考えれば考えるほど不思議な緣でありまして・・・この深いご縁をかたじけなく思ってお互いに自分を投げ出し合って学ばねば・・・」。

 

「自己の一切は自己を超えたものの力で与えられている」、これは先生43才の哲学的処女作「恩の形而上学」(致知出版社)のテーマです。

 

「恩」とは自己の一切が自己を超えたものの力によって与えられているだけではなく、さらに自己の今日に到るまでの一切の歩みもまた自己を超えたものの力によるものだということです。

 

この世の中で起きるすべては「絶対必然即最善」ということです。いのちは照らされている、つまり「いのちの所照」で一般的に「他力」と呼ばれています。学年始めの挨拶で「絶対必然即最善」を優しく説いています。

 

「われわれ人間というものは、すべて自分に対して必然的に与えられた事柄については、そこに好悪の感情を交えないで、素直にこれを受け入れるところに、心の根本態度が確立すると思うのであります。」

 

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

10月5日(金)

 

作家の小島直紀氏は「修身教授録」の「推薦の言葉」で述べています。

 

七十代のはじめに、この書物で心を洗われた幸せを思う。

生きるための原理原則を考え直し、晩年にそなえるために、

これ以上の出合いはなかった。

 

奥深い真理が、実に平明に、ていねいに語られていて、

おのずと心にしみてくる。

よほど謙虚さと使命感と責任感がなければできないことだ。

 

「慎独」とは結局、天が相手だ」

「志は野望とはちがう」

「その人の生前における真実の深さに比例して、

その人の精神は死後にも残る」

 

こういう言葉は、もはや学生ではなく、さまざまな職業の、

三十代、四十代、五十代、六十代、七十代と、

それぞれの年齢に応じて重く響くものがあるだろう。

特に組織のなかに埋没しがちなサラリーマンにすすめたい。

 

 

*本書は五百頁を超える大作で第Ⅰ部全40講(昭和12年3月〜昭和13年4月)、第2部全39講(昭和13年3月〜昭和14年4月)から成立しています。

 

ぜひ本書をご覧いただきたく、お忙しい方々に各講義の要点を紹介します。最初は「大意」です。