「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月16日(月)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第2節「時の三様態について」の1回目で、時の「三様態」に関する古典的な見解はアウグスチヌスで、わが国では西田幾多郎博士だと述べています。

 

人間がつねに時・空の相即性、否、その無限交錯性を脱しえないのは、根本的には人間の有限性に基因するものというべく、もし絶対全知の立場に立てば、時・空の両者はこのように分裂しつつ、しかも不可分離ということではなく、まさに一如に大観できる筈であるが、そうなり得ないところに人間の有限性、また知性の分裂性があると言ってよいであろう。

 

時間の考察に当たり、問題となるのは、いわゆる時間の三様態の問題、即ち時間は人間の立場からは、過・現・未の三様態として現われる他ないが、もし絶対全知の立場から観ずるとしたら、かような三様態に分裂することなく、一如に大観し得るはずで、これ即ち「永遠」に他ならない。

 

我々有限知にあっては、永遠というものも、「現在」という真に瞬時の一点において触れ得るに過ぎぬと言わねばなるまい。・・・そこで最根本的には、このような究竟的立場を予想しつつ、現実の時間論として、まず時の三様態について考えてみることにしたい。

 

「時の三様態」とは、周知のように過去・現在・未来、ないしは逆に未来・現在及び過去という、時の経歴する三種の様態について言うわけであるが、西洋の古典的大家のうち、果たしてかかる見解を持つ人の有無についても、精しく知るところのないのは遺憾である。

 

この「時の三様態」に関する古典的な見解は、言うまでもなくアウグスチヌスであって、爾来時に関する哲学論でこの点に関説しないもののないどころか、ほとんどは、彼の見解に依拠していると言ってよいであろう。

 

わが国において、この点について真先に着眼し、かつ力説されたのは、いうまでもなく西田幾多郎博士であって、爾来わが国の哲学界における時間論は、ほとんどがそれに追随すると言ってよいであろう。わたくしとしては、能う限りは自己の体験を追体験し、さらには自らの“いのち”の自証の上に、その験証を試みたいと考えるわけである。

 

詩集「念ずれば花ひらく」(坂村真民)③

 

3月14日(土)ホワイトデー。

 

本日は「捨てて捨てて 捨て得ないもの」「今」「あの時のことを」、さらに「あとがき」の最終回です。

 

捨てて捨てて 捨て得ないもの

 

捨てて捨てて

捨て得ないもの

それは一遍上人にとっては

ナムアミダブツであり

わたしにとっては

詩であり

母にとっては

遺された五人の

幼な子であった

 

捨てて捨てて

捨て得ないもの

それには人それぞれのものがあるだろう

でもあくまでもそれは

財産でもなく

名誉でもなく

 

他のためにつくす

無償の愛でありたい

 

かつてない狂乱の時代に生まれきて

静かに一隅にあって

花を愛(め)で

捨てて捨てて捨てえないものを

わたしは今日も

乞い願う

 

 

大切なのは

かつてでもなく

これからでもない

一呼吸

一呼吸の

今である

 

 

あの時のことを

 

あの時のことを

お互い忘れまい

ふたりが

かたく誓いあった時のことを

ふかく喜びあった時のことを

 

思いあがった時は

いつも思い出そう

初めて父となり

初めて母となった

あの嬉し涙を

 

お互い

古くなってゆく袋に

新しいものを入れなおそう

 

おのれを失った時は

いつも語りあおう

慰めあい

悲しみあい

苦しみあい

二人で過ごしてきた

数々の日のことを

 

「あとがき」から。

 

念というのは、今という字を、心という字からできている。つまり、いつも、そう思うということである。一つのことを、いつも思い続けていると、五十兆あると言われている体の中の全細胞が、今日の言葉でいうと、遺伝子が、そうなってゆく。

 

 そのことは現代の科学者が、実証しているもので、二十一世紀になれば、こうした学問はもっともっと進み、「念ずれば花ひらく」とい真言が、生きたものになってくると思う。

 

 わたしは、「千年のまなざし」ということを、近ころ特に詩にしているが、詩人はある意味では、予言者でなくてはならぬと思う。つまり未来を切り開き¥いてゆく者、前人未踏の道を行く者でなくてはならぬと思う。

 

だからこれからの人たちは、千年のまなざしを持ち、大宇宙の中に存在する優良遊星(惑星)から、笑われないような地球にしたい。

 

東洋の詩人では杜甫(とほ)、西洋の詩人ではゲーテ、そういう人たちから励まされてきたが、でもわたしは今、過去の人たちが想像もしなかった核爆発や、核兵器の恐怖下にある現代では、個人のことよりも、もっと宇宙的視野に立って、生きと生けるもののことを考えねばならぬ時代に来ていると思う。

 

 政治家も、経済人も、大宇宙が持つ愛と平和の想念のわかる人となるよう、『詩集 念ずれば花ひらく』を読んでいただいたら、この上もない喜びである。・・・

 

   一人の祈りを万人の祈りに

   一人の願いを万人の願いに

   一人の夢を万人の夢に

                   タンポポ堂にて  真民

 

 

 

 

 

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月13日(金)奈良春日大社 春日祭。

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の4回目で、時空は異質的だが、両者は絶対に不可離といわねばならないと述べています。

 

さて、以上を前提として考察することによって、時間と空間が互いに深く交錯し、現実的世界の形式と構成に対して、至大な意義を有していることを、改めて痛感せしめられるのである。それゆえ時・空の両者は、たしかに異質的に相違ないが、それにも拘らず両者は絶対に不可離といわねばならぬ。

 

即ち時間観念のある限り、直接か間接にか、そこには必ずや空間の観念は予想されているというべきであろう。かくして最初に述べたように、時・空の両者をカントのように、単に現象界を構成する認識形式とのみは考えないで、“いのち”の実現としての現実界成立のために、絶対不可欠な二種の根本的かつ異質な原理と考えるのである。

 

それ故にまた時・空を以って、それぞれの内容との相即において考えると共に、さらに時・空そのものの相互無限交錯を見るわけである.例えば、今わたくしの眼前にある一個の日向蜜柑は、机上に置かれたままその位置は、先ほど来不変のままに存在している。

 

これに反して今執筆しつつある原稿について言えば、原稿用紙は時どき多少は動かしはしても、その位置は大して変わらぬと言えるのに反して、このボールペンの方は、一字々々文字を書くために常に動きつつあるのである。即ち一字々々の進行が、そのまま時間と空間との刻々時々の切り結びと言ってよいであろう。

 

しかも斯くあり得るゆえんの根本は、最初から述べているように、時・空は単なる認識の形式ではなくて、実在的生命の顕現、否、発現様式であり、かく考えざるを得ないわけである。それ故にこそ、時・空の両者は、根本的にその性格を異にしつつ、しかも交互に無限に交錯しつつ、無量多の物象の上に切り結びを印刻しつつ、それら一切の事象を成立せしめていると言えるのであろう。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月12日(木)東大寺二月堂お水取り。

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の3回目で、時空を「実在的生命の表現と見る」と述べています。

 

それゆえ以下、時・空の考察に当たっても、この書においては、これを単に現象界成立の「形式」とのみ見ないで、それぞれの実在的生命の表現と見ようとするのである。もっともその場合、時間と空間とは、それが実在的生命と関わる趣の上には、かなり大きな差のあることを知らねばなるまい。

 

それというのも空間は、いわゆる外官の認知形式であって、それの実在的生命への根ざしは、時間ほどには深くないといえよう。それにも拘らず、空間自身もやはり実在的生命に関わり、否、その外的現象的表現というべきであろう。

 

同時にそれ故にこそ、時・空は根本的にその性格を異にするにも拘らず、互いに相交錯することによって、現実界というものを形式実現することが可能なわけであって、もし時間と空間とが単にその性格を異にするのみでなくて、その根底に何らかの意味における共通的基盤ともいうべきものが全欠しているとしたら、この現象界そのものの成立すら、不可能に相違あるまい。

 

わたくしには今一つ言うべきことがある。それは空間を単なる現象界成立の形式とのみ見ないで、その内容との相即において一種の“全一”と見るということである。それは空間を単に無内容な形式とのみ見ないで、そこに見られる現実的世界との相即において見ようというわけである。

 

ではこれに対して時間は如何かというに、これもまた同様であるばかりか、時間は単に無内容な形式ではなく、現実的内容と相即的な趣はさらに一段と深いといわねばなるまい。何となれば、時間は空間以上に具体的であり、それだけにまた実在的生命への関わりもより深いというべきだからである。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月11日(水)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の2回目で、カントの時空論との違いを“いのち”の自証と展開の立場から説明しています。

 

時間と空間との密接な関係を、哲学史上最も明らかに示したものは、一応カントと言ってよいであろう。いやしくも偉大な哲学者といわれる人にして、時間が空間と不可離な関係にあることに気づかなかった哲学者は、一人として無いであろうが、カントほど明確にこれを意識し、究明した哲学者は彼以前にも、彼以後にも無いといってよいかと思う。

 

時間と空間の密接不可離性がかくも明確かつ周到に究明され、論究されているが故に、何人も改めてこれを取り上げる気になれず、カントの所論を完全に同意しえぬものがあるにしても、ともかくそれを踏襲し自余の問題の究明に精力を向けていると見てよいであろう。

 

わたくしもまた、ほぼ同様の立場に立つと言ってよいが、その立場はカントのように、自然科学的認識の成立根拠を、学問的に証明しようというのではなく、どこまでも自らの生の自証に徹しようとする立場であり、「世界創造」というが如き極大無限の考察究明までも、結局は自らの“いのち”の自証の徹底と究尽以外には途なしとする立場からは、カントのそれとおのずから異なるのはけだし当然という他ない。

 

にも拘らず、時間と空間の関係という点からは、もとよりカントと別の見解をとり得ないことは言うまでもない。随って一応はカントの時空論を踏襲受容する他ないであろうが、根本的に異なるのは、カントにあっては、時・空は現象界の認識成立のために、二大先験的形式とされていることは周知の事柄である。

 

ただこの場合カントは、特有の認識批判の立場に立つがゆえに、空間はもとより時間さえも、単に現象界成立のために不可避の根本形式とするに留まるが、わたくしのように哲学的立場を“いのち”の自証とその展開と考える立場に立てば、時間は単に現象界を認識せんがための、単なる形式とのみ考えられないのであって、そこには実在的生命のもつ、“いのち”の鼓動にも比すべき一面があるとさえ言うべきかと思うのである。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月10日(火)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の2回目で、「時の最根本的、本質的な究明は“いのち”の自証の他ない」と述べています。

 

時の考察上でさらに重大なのは、永遠との関係であって、これはいわば絶対の「生」(いのち)を、時との関係において、時の側面から捉えようとするもので、これまた至難と言われるゆえんである。

 

時の問題が一切の哲学上の問題の中で、最至重にしてかつ最至難の問題とされる、真の根本的因由ともいうべきは、畢竟するに時というものが、「生」の最端的な微表と言ってよいからである。例えば「生」ある限り、一刻といえども留まることのない、呼吸並びに脈博は、最も切実に、時を知らせるといえようが、これらの両者は自己の生の最端的な微表だからであろう。

 

かくして時の問題が、古来哲学上最難の問題とされるのは、結局我々にとって「生」の最端的な微表だからであり、それは「生」の把握と究明が、最至難な問題だということの、一つの端的な微表といえるからであろう。随って時の最根本的、本質的な究明は、結局“いのち”の自証の他ないのである。

 

かかる“いのち”の自証は、時間の究明の際にはひとり“いのち”の内観のみではなく、さらにそれの客観的自証をも包摂しなければならない処に、時というものに特有な独自の性格があるといえよう。そのような時のもつ客観的側面を考察するには、まずそれの空間との関係の考察から始めねばならない。何となれば、空間は時間と比べては、一応客体的なものと言えるからである。

 

わたくしが“いのちの自証!という場合、それは常にその内面に客観性を包蔵しているが、しかしこのように空間と関係し、否、時々刻々、自らの空間と交錯せしめ、さらにそれと切り結ぶ場合、その時の時間はきびしくも空間と出逢い、これと切り結ばざるをえない。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月9日(月)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の1回目で、哲学上「時」に関することがいかに至難な問題であるかを説いています。

 

「時」とはそもそも如何なるものであろうか。これは哲学上おそらくは最難の問題といってよいのではあるまいか。現にアウグスチヌスほどの人にして、その「告白録」の最後の三章の中で、幾たびも言うている事の上にも証せられるであろう。

 

では、何ゆえ「時」の問題は、哲学上かくも最至難の問題とされるのであろうか。それには、さし当たって、空間との関係という側面から、全く根本的にその質を異にしながら、しかも密接不離の関係にある側面からの考察が必要であろう。

 

この場合には、「時と空間」というよりも、「時間と空間」という方が、やや応わしいと思われるが、そこには、同じ「時」でありながら、永遠との関係を考察する場合には、「時と永遠」とする方がしっくりと受け取れるかと思われる。

 

このような点一つとってみても、この「時」というものの性質が、如何に複雑微妙であって、まことにその端倪(たんげい)を許さぬことの一端は伺えるかと思うのである。もっとも、ヨーロッパ語の場合には、空間との関係の場合も、永遠との関係の場合でも、このように微妙な顧慮の必要はないわけである。

 

それがかかる微妙なニュアンスの差を現ずるのは、そもそも時間という語自身が実は邦訳であるからだと思う。純粋な大和言葉としては、「時」(とき)であって、それが本になって時節、季節等、時を意味する種々の表現が生じたものと思われる。

 

時の考察が至難とされるのは、このように単に異質的な空間との関係が、密接不可離なばかりか、「時」そのもの、あるいは時間そのものの根本的な様態ともいうべき、過・現・未の三様態があり、しかも三様態そのものの考察自身も、実に微妙かつ複雑であって、単なる知性の分別知を以って、たやすく分析するのを許さぬものがあるからと言えよう。

 

土曜雑感 詩集「念ずれば花ひらく」(坂村真民)②

 

3月7日(土)

 

本日は「タンポポ魂」「二度とない人生だから」、さらに「あとがき」の2回目です。

 

タンポポ魂

 

  踏みにじられても

  食いちぎられても

  死にもしない

  枯れもしない

  その根強さ

  そしてつねに

  太陽に向かって咲く

  その明るさ

  わたしはそれを

  わたしの魂とする

 

 

二度とない人生だから

 

二度とない人生だから

一輪の花にも

無限の愛を

そそいでゆこう

一羽の鳥の声にも

無心の耳を

からむけてゆこう

 

二度とない人生だから

一匹のこおろぎでも

ふみころさないように

こころしてゆこう

どんなにか

よろこぶだろう

 

二度とない人生だから

いっぺんでも多く

便りをしよう

返事は必ず

書くことにしよう

 

二度とない人生だから

まず一番身近な者たちに

できるだけのことをしよう

貧しいけれど

こころ豊かに接してゆこう

 

二度とない人生だから

つゆくさのつゆにも

めぐりあいのふしぎ思い

足をとどめてみつめてゆこう

 

二度とない人生だから

のぼる日しずむ日

まるい月かけてゆく月

四季それぞれの

星々の光にふれて

わがこころを

あらいきよめてゆこう

 

二度とない人生だから

戦争のない世の

実現に努力し

そういう詩を

一篇でも多く

作ってゆこう

わたしが死んだら

あとをついでくれる

若い人たちのために

この大願を

書きつづけてゆこう

 

 

「あとがき」から。

 

 さて、今年のはじめひどい腰痛にかかって、寝返りも来るしいほどの日が続いた。そうしたある夜明け、天啓のように『念ずれば花ひらく』と題する詩集を出そう、『念ずれば花ひらく』というエッセイ集はあるが、肝心の詩集はない。

 

 そう思いつき、かねて要請されていた、サンマーク出版にお頼みしてみようと、編集部の斉藤竜哉さんに、手紙を出したのだった。快諾していただき、この詩集を、もっと若い人たち、特に二十一世紀の日本を背負って立つ方たちにも読んでいただけるようにと、詩の選出を要望したのであった。

 

 詩は未来を切り開くためのものでなくてはならぬ。というのが、詩を書き続けているわたしの願いであり、祈りなのである。だからわたしの詩はほとんど夜明けに生まれている。宇宙の波動が一番多く強く落下するのは、夜明けである。

 

 わたしはこの波動を、念波と言っているのであるが、念ずるというのは、前向きに生きようとすることであって、希望なのである。どん底に落ちても、念じながら這いあがってくる不屈の魂である。

 

わたしのいるところをタンポポ堂と名づけたのも、あのタンポポが持つ明るい想念を、わが想念としたいからである。ドイツ語の詩集ができた時も、題名をただ『タンポポ』とした。タンポポは世界の花、いや地球の花である。「 念ずれば花ひらく」の八字十音の真言を、

一番よく知っているのは、タンポポなのである。

 

選んだ詩を並べた原稿を送ってくださったが、その最初の詩が、「タンポポ魂」であった。本当に嬉しかった。地球の存在する限り、タンポポは咲き続く強い野草だからである。

農家の方が言われる。いくら農薬をかけても、タンポポだけは根絶えできませんと。

 

これからの人間も、どんな困難な時代が到来しても、再起再生するような強いものを持たねばならぬ。わたしは、そう祈り願って詩を作ってきただけに、どうかこの詩集を身辺に置いてもらいたいのである。(つづく)

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月6日(金)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第5節「善悪の彼岸への希求」の4回目で、人間は「絶対的全一生命の中に抱かれてきたことに気づかなかったに過ぎない」と述べています。

 

かくして、「生」の絶対的本源への帰還、換言すれば、己が「生」の根底に永劫に生き続けている絶対全一生命との直続の自覚に達するためには、それに値するだけの不幸を、この地上において支払わねばならないのが常だと言ってよい。

 

そのような地上的不幸は、いわば雲の切れ間から陽光を仰ぎ見るように、幾多の逆境、即ち地上的な不幸の数々を通して、初めて自己の「生」の絶対的本源との直続性を自覚するに到るといってよいであろう。

 

かくして宗教とは、自らの有限的「生」と、その絶対的本源たる全一生命との直続の自覚とも言えるであろうが・・・人間は出生のそもそもの始めから、かかる有限的「生」と絶対的「生」との直接的な直属関係にありながら、それと気づかずにいるわけである。

 

即ち我々自身は、背後から絶対無限の恩光に照らされていながら、それと気づかず、あたかも自己の力で己が路を歩んでいるかに考えていたのが、自己の前に無限の絶壁の立ち塞っているのに当面し、止むなく後を振り返りみるに及んで、初めて自分の背後から絶対無限の温光が照射していて、わが道を辿り得たのだと気づくにも似ているといえるであろう。

 

かくして我々は、自ら被造物の一員として、その有限性を免がれえないにも拘らず、何とかこのような制約限界を超えて、自らの「生」の本源に還りたいとの希求を抱いているのであるが、わざわざ求めるには及ばぬことであって、すでに絶対的全一生命の中に抱かれているのに気づかなかったに過ぎないのである。

 

今や残り少なきこの世の「生」」の終末に近づいたからであろうが、如是の真理に開眼せしめられたことは、生涯この一道を辿ってきたわが身には、無上の幸慶という他なく、げに臨終一念の念仏によっても、弥陀の救いに与かり得るとする教説の真実なることを、ここに身を以って承受せしめられるとの想いの切なるものがあると言えよう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月5日(木)啓蟄。

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第5節「善悪の彼岸への希求」の3回目で、宗教的希求は己が「生」への希求であり、還帰復活への希いだと述べています。

 

だが、ひとたび観点を翻して考えれば、これほど「生」にとって、至深な希いは無いとも言えるであろう。何となれば、飢えの迫った時、我々が一椀の食を求めて止まないのも、切実かつ深刻な「生」の希求といえるであろう。

 

しかしそれは考えようによれば、この醜い自己の個人的「生」の持続延長を求める希いに過ぎないわけでもある。随ってその「生」の終末は、単なるその生物的「生」の断絶であり死滅の他ないわけである。

 

しかるにかの宗教的希求に到っては、いささか趣を異にするものがあり、あるいは質的観点からは、そこには正に天地懸隔するほどの“ひらき”が観ぜられるとも言えるであろう。何となれば、その場合至心に希求されているものは、己が「生」の本源への希求であり、それへの還帰復活への希いだからである。

 

そこには、今一つの比喩を借りるとすれば、己が「生」の大御親に還って、永遠にその懐に抱かれようとの、かの嬰児の希いにも似た、至心の希求が求められていると言ってもよい。かくして、被造物の一つとして、その有限性を免がれ得ない人間が、その「生」の本源を求めて、それへの帰還を求める、かかる至心の希求は当然の希いというべきであろう。

 

かかる希いを切実に抱き続ける人こそ、この地上の生活を意義深く生きる人というべく、これに反して、かような問題については、終生ほとんど関心を持つことなくして、この地上の「生」を終える人の一生は、実に不幸な人生というべきであろう。

 

しかしながら、この世にあってすべて高貴なるものは、これを得んがためには、それにふさわしいだけの値を支払わなければならぬというのが、免がれ得ない根本制約であり、約束と言ってよいであろう。