詩集「念ずれば花ひらく」(坂村真民)④

 

3月21日(土)

 

本日は「生き方」「生きることとは」「七字のうた」、さらに全国朴の会会長 片山 克氏の「真民さんーーその人物と作品」を紹介します。 

 

生き方

 

  わたしが尊ぶのは

  その人の思想ではなく

  その人の生き方だ

  わたしが木を見て

  感動するのも

  絶えず天へ向かって

  伸びようとしている

  あの張りつめた

  姿にある

  若木は若木なりに

  老い木は老い木なりに

  己れを己れたらしめようとしている

  人間以上のものを

  わたしは木々に感じて

  その前に立つのである

  あの興奮はたまらなくいい

 

 

生きることとは

 

生きることとは

愛することだ

妻子を愛し

はらからを愛し

おのれの敵である者をも

愛することだ

 

生きることとは

生きとし生けるものを

いつくしむことだ

野の鳥にも草木にも

愛の眼を

そそぐことだ

 

生きることとは

人間の美しさを

失わぬことだ

どんなに苦しい目にあっても

あたたかい愛の涙の

持ち主であることだ

 

ああ

生きることとは

愛のまことを

貫くことだ

 

 

七字のうた

  

  よわねをはくな

  くよくよするな

  なきごというな

  うしろをむくな

  

  ひとつをねがい

  ひとつをしとげ

  はなをさかせよ

  よいみをむすべ

 

  すずめはすずめ

  やなぎはやなぎ

  まつにまつかぜ

  ばらにばらのか

 

  

真民さんーーその人物と作品 

 

坂村真民さんは、明治42年(1909年)生まれで、今年(平成10年)数え年の90歳。今も矍鑠(かくしゃく)として活動を続ける現役の詩人である。幼少のころは、体が小さくしかも病弱であった。8歳のとき、小学校の校長をしていた父の急逝により、どん底の生活に落ちる。

 

そして五人兄弟の長男として、母親を助けて幾多の困難と立ち向かう中で、甘えを許さぬ一

徹さを身につけたという。短歌を始めたのは、18歳で伊勢の神宮皇学館へ入学後のことである。それは「自分をつくり上げるためだった」と語っている。・・・

 

しかし、それまでの自己の確立への疑問から短歌を捨て、以後、高等学校の教師を続けながら、詩集を次々と出版。昭和37年からは、月刊詩誌を『詩国』と改めて発行、これは四百三十号を突破し、今も続いている。このように真民さんの詩歌生活は70年に及び、その作品は一万篇を超える。・・・

 

恩師の森信三先生は、真民さんを比類なくき「国民詩人」と称えておられるが、宗教を差別せず、森羅万象への愛を歌う真民さんを「宗教詩人」「祈りの詩人」と呼ぶ人もいる。

 

真民さんは、大宇宙の大和楽を念願して、毎日午前零時に起床、未明混沌の霊気の中で念仏し、詩作する。月の光、星々の光を吸収しながら重信川を渡って、太地に額をつけ、地球の平安と人類の幸福を祈願している。

 

そうした中から生まれる真民さんの詩は、「人はどう生きるべきか」を命題に、人間としての在り方を深く掘り上げ、誰にでもわかる言葉で表現されたものが多い。それだけにその詩は、幼稚園児から財界人まで、年齢・職業を問わず幅広く愛唱されている。・・・『詩集念ずれば花ひらく』が、二十一世紀を担う若者たちの夢と希望を膨らませ、人生航路の行く手を照らす燈火となることを期待したい。

                     全国朴の会会長 片山 克

 

 

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月20日(金)春分の日。

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第3節「時と永遠の問題」の1回目で、どうしたら「永遠」の“いのち”ともいうべきものの一端に触れ得るかと、問題を提起しています。

 

「時と永遠」の問題は文字通り哲学上最重要な問題であり、一切の哲学的諸問題の中でも、最至難な問題と言えるであろう。この問題に関して、真に心から納得できるような哲学説のいかに寥々として乏しいかによっても、このことは明らかだと思う。

 

西洋の哲学史上、この点に関して最も深い体認をもっていただろうと思われる人としては、ソクラテス及びプラトンをしばらくカッコに入れるとすれば、プロチノスとアウグスチヌス及び中世の神秘主義思想家くらいで、近世においてはスピノザを挙げうるのみかと思う。

 

その理由としては、近世に入ってから所謂「自我」の覚醒のため、とかく自我中心的となったが故かと思われるのである。それというのも、真に「永遠」について体認するには、何よりも「全我」の放棄ないしはその超克を必要とするが故である。

 

序でに付言すれば、スピノザの哲学は、ことさらに「永遠」という問題を掲げてそれを論ずることはしないで、「エチカ」全巻の論述そのものが、凡てこれ「永遠」の寂光裡に映現するこの地上の現実界の諸相であり、それへの照射照徹といってよいであろう。

 

それではこの問題に対して、一体どこから考察の手を着けたらよいであろうか。まず考えられることは、「時の三様態」中、その中心というべき現在を手掛かりとする他ないと思うのである。なお、永遠の世界を絶対界とすることについては、人によっては異論があるかと思われるし、そうした気持ちが分からぬわけではない。

 

しかし、ここでは永遠界とは、絶対界を「時」に即して把握したものの表現と解してもよいことにしたい。では一歩すすめて、現在の手がかりとして、どうしたら「永遠」の“いのち”ともいうべきものの一端に触れ得るといえるであろうか。これ自身がある意味では至難の問題といえるであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月19日(木)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第2節「時の三様態について」の4回目で、今後の新たな時間論としての「時の三様態」は、今少し具体的、客観的かつ積極的、行動的に考え直す必要があろうと述べています。

 

これに反して悦ばしい事象については、いつ迄もそれを記憶に留めて感謝するよう、積極的な努力が必要かと考えるのである。・・・現実に努力するのは刻々時々なる「現在」の他なきことは、改めていうを要しないがーー

 

そもそも人間の直接的努力で「現在」以外に為しうる場合があろうとは思われないが、仮にもしあるとすれば、それは夢裡のそれという他あり得ぬわけであるーー

 

しかもわたくしの力説したいのは、未来を単に希望のみであって現実ではないとし、また過去についても消え去って単に記憶に残るのみ、というような主観的諦観の分析に留めないで、今少しく具体的、客観的かつ積極的、行動的に考え直す必要があろうかと考えられるのであって、こうした方向に今後の新たなる時間論としての「時の三様態論」が為されるべきだと、考えるのであるが如何であろうか。

 

かような具体的、客観的、積極的な態度といえども、現実にそれに努めるのはあくまでも現在の他ないことは、改めていうを要しないであろう。現在においてでない如何なる現実的努力ないし行為も、現実としては有り得ないことは、この地上における絶対的制約というべきだからである。

 

要するに、「時の三様態論」としての過・現・未の分析としては、アウグスチヌスの所説は永遠に不変の真理と言えるとしても、現代において我々がこれを受け止めるに際しては、そこに「行動的叡知」の照射と返照とを必要とするのではなかと考えるわけである。即ち、単に主観的な宗教的諦観の立場でこれを模写的に解しているだけでは、不充分かと考えるのである。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月18日(水)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第2節「時の三様態について」の3回目で、アウグスチヌス、西田博士の宗教的立場とは異なる“いのち”の全現の立場から自説を展開しています。

 

人間の表現は、一応コトバによって語るか、それとも文字によって書くこと以外はないのであって、もしそれ以外にもあるとすれば、我々の躰でもって表現する以外にはないわけである。以上三種の表現様式の中では、第三の行動による場合が、意外に適切な場合もあるはずである。

 

それは人間にとって、永遠なる真実と言われるものは、コトバの表現様式を超えて、身・心一如なる全人的表現というべきが、その本来だからであろう。たとえば宮本武蔵が佐々木巌流を唯一撃によって斃した如きも、それと言えないわけではあるまい。

 

時間は結局過・現・未の三様態の他にはなく、未来は未だ来らざるものとして、希望ないしは願望として以外にはありようがなく、また過去も、刻々時々に消え去って、記憶の中に留まるのみだと言ってよい。

 

さて、結局はアウグスチヌスの時間論の骨子ともいうべき、時間の三様態についての見解であり、それを踏襲した西田博士の見解も、全くこれと符節を合するものと言ってよい。唯アウグスチヌスも西田博士も、ニュアンスの相違はあるにしても、共に宗教的な立場に立つが故に、何れも現在を絶対視する趣が深いと言ってよかろう。

 

わたくしの立場は、宗教・道徳一体なる“いのち”の全現の立場というべく、仮に未来についても、確かに希求願望の中にしか在りえぬわけではあるが、かかる未来の願望に対しては、今というこの「現在」から着々とそれへの準備と対策を怠るべきではないという点を力説したのであり、

 

また過去についても、刻々に消え去って単に記憶に留まるのみだというは、事実その通りだと思うが、多面悪しき事柄については、深き内省と懺悔と共に、いつまでもそれに執せぬ努力もまた必要といべきであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月17日(火)春の彼岸入り。

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第2節「時の三様態について」の2回目で、時間論で最至難というべき問題は「現在」だと述べています。

 

アウグスチヌスの時間論は、その「告白録」の最後の三節がそれに当てられているが、これらは「旧約聖書」の冒頭に書かれている「創世記」神話に対する解釈であって、この点は実に重大な意義を持っていると言ってよかろう。

 

西田博士の場合、この点については重視力説されていないと言えようが、それはいかなる理由によるのであろうか。結論から先に言うとすれば、西田博士の場合、その「絶対」の体認の基礎体験は禅であって、アウグスチヌスのように超越的存在者に対するそれではなかったが故であろう。

 

随って、アウグスチヌスの時間論は、もともと神の永遠性に対する讃美の為であったと言えるが、その点西田博士の場合は、ただ時間の三様態のみが正面に打ち出されており、そこからして「永遠の今」の力説に終始せられるゆえんであろう。

 

時間論において、最至難というべきは「現在」だと言ってよく、けだし現在は、それを把握すること自体が、実は容易でないことを知らねばなるまい。何となれば、それは文字通り真に一瞬裡における“いのち”の全現成という他なく、一瞬以前はいまだ未来に属して現在とはいえず、さりとて一瞬以後となれば、それはすでに過去という他ないからである。

 

このように現在というものは、その把握自体すら容易ではないのに、いわんやこれが表現おやと言わねばなるまい。何となれば、「現在」の体認そのものは、必ずしも不可能ではないが、一人の例外もなく現在を生きつつあると言ってよいからである。だが、現在を生きるということは、万人にとって容易ではないことを知らねばなるまい。

 

真に「現在を」生きるということになれば、それは現在のわが“いのち”を充全に実現しつつ生きることであって、何人にも容易なことではないと言わねばならぬが故である。いわんや「現在」というもののもつ如是の趣を、何人がよく真に表現しうるであろうか。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月16日(月)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第2節「時の三様態について」の1回目で、時の「三様態」に関する古典的な見解はアウグスチヌスで、わが国では西田幾多郎博士だと述べています。

 

人間がつねに時・空の相即性、否、その無限交錯性を脱しえないのは、根本的には人間の有限性に基因するものというべく、もし絶対全知の立場に立てば、時・空の両者はこのように分裂しつつ、しかも不可分離ということではなく、まさに一如に大観できる筈であるが、そうなり得ないところに人間の有限性、また知性の分裂性があると言ってよいであろう。

 

時間の考察に当たり、問題となるのは、いわゆる時間の三様態の問題、即ち時間は人間の立場からは、過・現・未の三様態として現われる他ないが、もし絶対全知の立場から観ずるとしたら、かような三様態に分裂することなく、一如に大観し得るはずで、これ即ち「永遠」に他ならない。

 

我々有限知にあっては、永遠というものも、「現在」という真に瞬時の一点において触れ得るに過ぎぬと言わねばなるまい。・・・そこで最根本的には、このような究竟的立場を予想しつつ、現実の時間論として、まず時の三様態について考えてみることにしたい。

 

「時の三様態」とは、周知のように過去・現在・未来、ないしは逆に未来・現在及び過去という、時の経歴する三種の様態について言うわけであるが、西洋の古典的大家のうち、果たしてかかる見解を持つ人の有無についても、精しく知るところのないのは遺憾である。

 

この「時の三様態」に関する古典的な見解は、言うまでもなくアウグスチヌスであって、爾来時に関する哲学論でこの点に関説しないもののないどころか、ほとんどは、彼の見解に依拠していると言ってよいであろう。

 

わが国において、この点について真先に着眼し、かつ力説されたのは、いうまでもなく西田幾多郎博士であって、爾来わが国の哲学界における時間論は、ほとんどがそれに追随すると言ってよいであろう。わたくしとしては、能う限りは自己の体験を追体験し、さらには自らの“いのち”の自証の上に、その験証を試みたいと考えるわけである。

 

詩集「念ずれば花ひらく」(坂村真民)③

 

3月14日(土)ホワイトデー。

 

本日は「捨てて捨てて 捨て得ないもの」「今」「あの時のことを」、さらに「あとがき」の最終回です。

 

捨てて捨てて 捨て得ないもの

 

捨てて捨てて

捨て得ないもの

それは一遍上人にとっては

ナムアミダブツであり

わたしにとっては

詩であり

母にとっては

遺された五人の

幼な子であった

 

捨てて捨てて

捨て得ないもの

それには人それぞれのものがあるだろう

でもあくまでもそれは

財産でもなく

名誉でもなく

 

他のためにつくす

無償の愛でありたい

 

かつてない狂乱の時代に生まれきて

静かに一隅にあって

花を愛(め)で

捨てて捨てて捨てえないものを

わたしは今日も

乞い願う

 

 

大切なのは

かつてでもなく

これからでもない

一呼吸

一呼吸の

今である

 

 

あの時のことを

 

あの時のことを

お互い忘れまい

ふたりが

かたく誓いあった時のことを

ふかく喜びあった時のことを

 

思いあがった時は

いつも思い出そう

初めて父となり

初めて母となった

あの嬉し涙を

 

お互い

古くなってゆく袋に

新しいものを入れなおそう

 

おのれを失った時は

いつも語りあおう

慰めあい

悲しみあい

苦しみあい

二人で過ごしてきた

数々の日のことを

 

「あとがき」から。

 

念というのは、今という字を、心という字からできている。つまり、いつも、そう思うということである。一つのことを、いつも思い続けていると、五十兆あると言われている体の中の全細胞が、今日の言葉でいうと、遺伝子が、そうなってゆく。

 

 そのことは現代の科学者が、実証しているもので、二十一世紀になれば、こうした学問はもっともっと進み、「念ずれば花ひらく」とい真言が、生きたものになってくると思う。

 

 わたしは、「千年のまなざし」ということを、近ころ特に詩にしているが、詩人はある意味では、予言者でなくてはならぬと思う。つまり未来を切り開き¥いてゆく者、前人未踏の道を行く者でなくてはならぬと思う。

 

だからこれからの人たちは、千年のまなざしを持ち、大宇宙の中に存在する優良遊星(惑星)から、笑われないような地球にしたい。

 

東洋の詩人では杜甫(とほ)、西洋の詩人ではゲーテ、そういう人たちから励まされてきたが、でもわたしは今、過去の人たちが想像もしなかった核爆発や、核兵器の恐怖下にある現代では、個人のことよりも、もっと宇宙的視野に立って、生きと生けるもののことを考えねばならぬ時代に来ていると思う。

 

 政治家も、経済人も、大宇宙が持つ愛と平和の想念のわかる人となるよう、『詩集 念ずれば花ひらく』を読んでいただいたら、この上もない喜びである。・・・

 

   一人の祈りを万人の祈りに

   一人の願いを万人の願いに

   一人の夢を万人の夢に

                   タンポポ堂にて  真民

 

 

 

 

 

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月13日(金)奈良春日大社 春日祭。

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の4回目で、時空は異質的だが、両者は絶対に不可離といわねばならないと述べています。

 

さて、以上を前提として考察することによって、時間と空間が互いに深く交錯し、現実的世界の形式と構成に対して、至大な意義を有していることを、改めて痛感せしめられるのである。それゆえ時・空の両者は、たしかに異質的に相違ないが、それにも拘らず両者は絶対に不可離といわねばならぬ。

 

即ち時間観念のある限り、直接か間接にか、そこには必ずや空間の観念は予想されているというべきであろう。かくして最初に述べたように、時・空の両者をカントのように、単に現象界を構成する認識形式とのみは考えないで、“いのち”の実現としての現実界成立のために、絶対不可欠な二種の根本的かつ異質な原理と考えるのである。

 

それ故にまた時・空を以って、それぞれの内容との相即において考えると共に、さらに時・空そのものの相互無限交錯を見るわけである.例えば、今わたくしの眼前にある一個の日向蜜柑は、机上に置かれたままその位置は、先ほど来不変のままに存在している。

 

これに反して今執筆しつつある原稿について言えば、原稿用紙は時どき多少は動かしはしても、その位置は大して変わらぬと言えるのに反して、このボールペンの方は、一字々々文字を書くために常に動きつつあるのである。即ち一字々々の進行が、そのまま時間と空間との刻々時々の切り結びと言ってよいであろう。

 

しかも斯くあり得るゆえんの根本は、最初から述べているように、時・空は単なる認識の形式ではなくて、実在的生命の顕現、否、発現様式であり、かく考えざるを得ないわけである。それ故にこそ、時・空の両者は、根本的にその性格を異にしつつ、しかも交互に無限に交錯しつつ、無量多の物象の上に切り結びを印刻しつつ、それら一切の事象を成立せしめていると言えるのであろう。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月12日(木)東大寺二月堂お水取り。

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の3回目で、時空を「実在的生命の表現と見る」と述べています。

 

それゆえ以下、時・空の考察に当たっても、この書においては、これを単に現象界成立の「形式」とのみ見ないで、それぞれの実在的生命の表現と見ようとするのである。もっともその場合、時間と空間とは、それが実在的生命と関わる趣の上には、かなり大きな差のあることを知らねばなるまい。

 

それというのも空間は、いわゆる外官の認知形式であって、それの実在的生命への根ざしは、時間ほどには深くないといえよう。それにも拘らず、空間自身もやはり実在的生命に関わり、否、その外的現象的表現というべきであろう。

 

同時にそれ故にこそ、時・空は根本的にその性格を異にするにも拘らず、互いに相交錯することによって、現実界というものを形式実現することが可能なわけであって、もし時間と空間とが単にその性格を異にするのみでなくて、その根底に何らかの意味における共通的基盤ともいうべきものが全欠しているとしたら、この現象界そのものの成立すら、不可能に相違あるまい。

 

わたくしには今一つ言うべきことがある。それは空間を単なる現象界成立の形式とのみ見ないで、その内容との相即において一種の“全一”と見るということである。それは空間を単に無内容な形式とのみ見ないで、そこに見られる現実的世界との相即において見ようというわけである。

 

ではこれに対して時間は如何かというに、これもまた同様であるばかりか、時間は単に無内容な形式ではなく、現実的内容と相即的な趣はさらに一段と深いといわねばなるまい。何となれば、時間は空間以上に具体的であり、それだけにまた実在的生命への関わりもより深いというべきだからである。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月11日(水)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第8章「時と永遠」の第1節「時間と空間」の2回目で、カントの時空論との違いを“いのち”の自証と展開の立場から説明しています。

 

時間と空間との密接な関係を、哲学史上最も明らかに示したものは、一応カントと言ってよいであろう。いやしくも偉大な哲学者といわれる人にして、時間が空間と不可離な関係にあることに気づかなかった哲学者は、一人として無いであろうが、カントほど明確にこれを意識し、究明した哲学者は彼以前にも、彼以後にも無いといってよいかと思う。

 

時間と空間の密接不可離性がかくも明確かつ周到に究明され、論究されているが故に、何人も改めてこれを取り上げる気になれず、カントの所論を完全に同意しえぬものがあるにしても、ともかくそれを踏襲し自余の問題の究明に精力を向けていると見てよいであろう。

 

わたくしもまた、ほぼ同様の立場に立つと言ってよいが、その立場はカントのように、自然科学的認識の成立根拠を、学問的に証明しようというのではなく、どこまでも自らの生の自証に徹しようとする立場であり、「世界創造」というが如き極大無限の考察究明までも、結局は自らの“いのち”の自証の徹底と究尽以外には途なしとする立場からは、カントのそれとおのずから異なるのはけだし当然という他ない。

 

にも拘らず、時間と空間の関係という点からは、もとよりカントと別の見解をとり得ないことは言うまでもない。随って一応はカントの時空論を踏襲受容する他ないであろうが、根本的に異なるのは、カントにあっては、時・空は現象界の認識成立のために、二大先験的形式とされていることは周知の事柄である。

 

ただこの場合カントは、特有の認識批判の立場に立つがゆえに、空間はもとより時間さえも、単に現象界成立のために不可避の根本形式とするに留まるが、わたくしのように哲学的立場を“いのち”の自証とその展開と考える立場に立てば、時間は単に現象界を認識せんがための、単なる形式とのみ考えられないのであって、そこには実在的生命のもつ、“いのち”の鼓動にも比すべき一面があるとさえ言うべきかと思うのである。