「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月4日(水)

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第5節「善悪の彼岸への希求」の2回目で、「食」と「性」は生物に特有の根源的現象であるが、永却なるものを求めるのは、人間に特有の現象と述べています。

 

人間にとって、その「生」を持続する上には、重大な「生」の条件があるわけで、それは他ならぬ「食」であって、これなくしては、物・心何れの面において、如何に超凡卓出の資を持っていようと、その「生」を持続することの不可能なことは言うを要しないわけである。

 

これは人間のみに特有の制約とは言えず、この地上に生を与えられたすべての生物に通じる根本的運命と言ってよい。随って現実にはいかに深刻であろうとも、そのためには他の生(いのち)を殺すことによって、己が生を保つ場合すら少なくないとしても、これを咎める資格のないことは、よく承知しているわけである。

 

あるいはまた、我々は「性」の本能を賦与されていて、そのために悩む苦悩は、時としてはかの「食欲」に劣らぬほどだともいえよう。しかしこれに対して、人間に特有の悩みとは言い得ないであろう。何となれば、雌・雄相引き相求めるのは、その様式の上には千万無量の差はあるにしても、この地上に「生」を享けたるものには、共通する根源的現象と言えるからである。

 

しかるに、人間が自らの有限性を全脱しえないにも拘らず、永却なるものの「生」(いのち)に通じる一路を求めんとする切なる希求と努力に到っては、これぞ洵に人間に特有の現象だと言ってよいであろう。しかもこの一事たる、如何に至難のことであろうか。しかしこれも想えば、実に当然至極のことと言うべきであろう。

 

何となれば、有限存在たる人間にとって、絶対不可能ともいうべき、有限性の突破、ないし超越が合意せられるがゆえである。換言すれば、人間が自らに負わされている最根本的制約たる被造物性を、何らかの趣において超えようとする希求だからである。随って考えようによっては、これほどの冒涜はないとも言えるであろう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月3日(火)ひなまつり。

 

昨年の9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第5節「善悪の彼岸への希求」の1回目で、有限的「生」を超えんとする努力、それが古来「宗教」の名で呼ばれてきた生き方と述べています。

 

人間が有限存在であるのは、我々もまた被造物の一種でしかないからである。その生(いのち)は、広大無辺にして真に涯際なきこの大宇宙の間において、古来心ある人々は、われ人間の生の果無さを、朝に生まれて夕べに死する“かげろう”のそれにも比しているが、それは必ずしも誇張の言とは言い難いであろう。

 

ひとたび大観の立場に立つとしたら、たちまちにしてこの自己は極大無限界裡の一員たることに目覚めるであろう。もし人あって常に如是の知見を踏まえながら、その日々を生きるとしたら、その時、その人の「生」は、初めて真の充実を得るであろう。

 

同時にそのような「生」を生きることこそ、古来宗教的生活と呼ばれてきたものであり、また如是の生(いのち)を生きつつある人を称して宗教者と呼び、最近の用語によれば、これを宗教人と呼ぶもまた不可ではあるまい。

 

しかし人間にとって、真に宗教的「生」を生きんがためには、今一つの途のあることを知らねばなるまい。一言でいえば、内観自省の方向に徹して生きる途といってよく、常に善人たらんことを欲しつつも、静かに自省の鏡面上に映じて見る時、そこに映現するものは、善人どころか、醜悪極まりない自己の姿ではないか。

 

しかも多少の修養努力を以ってしたくらいでは、到底改め得ないのみか、むしろ時と共にいよいよ自己の本性の醜悪なることを知らしめられると言ってよく、まさに親鸞の「浄土真宗に帰すれども、真実の心ありがたし。虚仮不実のわが身にて、清浄の心さらになし」との「悲嘆述懐」は、そぞろ我が心根に滲み透るの念を禁じ得ないのである。

 

かくして、古来人類のうち卓れた人々によって、有限的「生」を超えんとする努力が為されてきたのであって、これ古来「宗教」の名によって呼ばれてきたものであり、人間に特有の生き方と言ってよいであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

3月2日(月)

 

今月も森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介します。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第4節「善・悪の相対性」の3回目で、「善・悪」の至深なる趣を一つの比喩をもって説明しています。

 

かくして、「善・悪の相対性」ということの至深なる趣を、今仮に一つの比喩を以って表すとしたら、それはある荒天の日に出発した一隻の小舟に乗り合わせた人々が、舟の進行と共に、左右の船べりに打つかる波浪は、しばしば船べりを越えて舟中へ浸水せんとばかりの中に、船頭はもとより乗客一同も、心の底から憂慮しつつ、ほとんど物言う者すらなきまま、舟は揺れにゆれつつ、波間を掻い潜りしつつ、それでもやがて港に近づかんとする気配を、身に沁みて痛感しつつあるにも比せられようか。

 

なお序でながら、真の宗教的世界と称せられるものは、とにもかくにも、先方の港に入港できるとの、深い安堵感にも似た趣がないでもあるまい。だから宗教を以って、かかる安堵感のみと考えるのは、おそらくは当たらざること遠きものというべきであろう。

 

では真の宗教的信とは如何なるものかと言えば、いま前掲の比喩を受けて試みに言うとすれば、かかる荒天の日に小舟を以って、かかる荒波の中を、ついに辛くも目指す港に着けたことは、根本的には深い安堵ではあるが、それに甘んじないで、わが荷物をまとめるのみか、船酔いの人々を扶けて、その人々の荷物をまとめて下船し、辛うじてわが身の大地を踏み得たことに、衷心より謝念を抱き、船員の人々に対しても、それぞれ謝辞を述べつつ、おもむろに辞去する一人の客人の心境とその態度に比せられるであろうか。

 

だが、心すべきは、比喩はどこまでも比喩であって、それよりもそこに到るまでの海上の危ない航行の比喩は、いわゆる「善・悪の相対性」というコトバの意味する内容が、いかに深刻極まりなきものかということへの、多少の示唆たり得たかと思うのである。

 

同時にその役目さえ、多少とも果たし得たとしたならば、わたしとしては、それで一応は充分といってよい。即ち、善に徹せんとして、その至難なるを歎き、また悪については、その限りなき根ざし深さを知って、まさに精魂の尽き果てんばかりなる「生」の苦闘を舐めて、初めて体し得るものかと思うのである。

なぜ、真民さんの詩は人々の心をとらえるのだろ

 

2月28日(土)

 

闇が光になる。悲しみが希望に変わる。希代の詩人、坂村真民が半世紀におよぶ詩作生活のなかで歌い上げた一万余編の作品から、「念ずれば花ひらく」「二度とない人生だから」「鳥は飛ばねばならぬ」などの代表作を含む128編を厳選して編集したのが、詩集「念ずれば花ひらく」(サンマーク出版)です。本日は「念ずれば花ひらく」「鳥は飛ばねばならぬ」「本気」の三作、さらに「あとがき」から紹介します。

 

 

 念ずれば花ひらく

 

  苦しいとき

  母がいつも口にしていた

  このことばを

  わたしもいつのころからか

  となえるようになった

  そうしてそのたび

  わたしの花がふしぎと

  ひとつひとつ

  ひらいていった

 

 

 鳥は飛ばねばならぬ

 

  鳥は飛ばねばならぬ

  人は生きねばならぬ

  怒涛の海を

  飛びゆく鳥のように

  混沌の世を

  生きねばならぬ

  鳥は本能的に

  暗黒を突破すれば

  光明の島に着くことを知っている

  そのように人も

  一寸先は闇ではなく

  光であることを知らねばならぬ

  新しい年を迎えた日の朝

  わたしに与えられた命題

  鳥は飛ばねばならぬ

  人は生きねばならぬ

 

 

「あとがき」で著者は語っています。

 

「念ずれば花ひらく」の詩が生まれた時、わたしは目を患い、絶望の底にあった。街頭のどんな大きな字もまったく見えず、心も体も、暗い世界に落ちていた。

 

 M眼科は名医だったので、朝早くから多くの患者が、順番を待っていた。わたしも番を待つ間、近くの神社にいた。大きなモチの木があり、赤い実がたくさん落ちていた。その赤い

実を見ていると、母のことが思い出された。

 

 母の名は、「種」といったからだ。母の苦労に報いることなく、このような病気になったことを、深く思い悲しんでいた。その時、生まれてきたのが、この詩であった。そうした絶望の淵から生まれ出たことを思う時、この詩は神から授けいただいたのであることが、あとになってからわかってきた。

 

作品というものは不思議なもので、苦しんでいる時は暗い詩になるかと思いがちであるが、ふと流星のように、明るい詩が生まれたりして、落ち込んでいる魂を奮起させてくれ、体の病も治ったりする。そうした詩が、わたしにはいくつもある。

 

 一寸先は光だと、わたしは言うが、絶望だ、闇だと、あと二分の命しかないと、落ち込んだ時も、救われた。その時は、まだ夜の明ける時刻ではないのに、窓の外が明るかった。どなたか光る方が立っていられると思った。

 

 あの時は目の病から、体の病となり、ぎりぎりのところまで来ていた時であった。

 あれからわたしは大きな病気をしなくなり、今は視力も回復し、どんな小さい字でも読めるようになった。(つづく)

 

 

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月27日(金)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第4節「善・悪の相対性」の2回目で、「善・悪の相対性」というコトバは単なる観念ではなく、その人の深い体験によって裏づけられるとしています。

 

以上を要約して言えば、善の実行をあまりにも当然の自明事の如く考える処から、その実行の容易ならぬ点さえいつしか閑却され、逆に軽んじられる傾向がないとは言えず、これは善への省察を欠く常識的見解の人々の間に、まま見られる現象といってよいであろう。

 

これに対して今ひとつ、善行の容易ならぬことの力説がその度を過ぎて、安易に他力教的宗教観へ逃避する人々もあり、深くわが身・心の中に、その深刻な相克性が身証されている趣の見られる人は、意外に少ないかに思われるが如何であろうか。

 

かくしてわたくしにとって、改めて痛省せしめられることは、ここでも「善悪の相対性」などという語を掲げたが、これをわが身に徹して実感として受け止めるためには、単に概念的な取り上げ方をすること自身が、いつしか重大な過誤を犯しつつあることへの深省を要することを、改めて痛省せしめざるを得ないのである。

 

如何となれば、「善・悪の相対性」などということは、自らが善の実践に対して身体をもって真剣に取り組んだあげくの果て、多くの人々が何ら疑いもなきかに考えてきたのとは、如何に相違するかということを、身根に徹して思い知らしめられるのである。

 

これを裏返していえば、悪の根強さ、根深さというものが、これほどまでだとはつい知らずに来たが、我ながら驚き果て、呆れ果てるほどまでに、しぶといものだということを、これまた身根に徹して想い知らされるという風に、善・悪の二方面に関して、つねに全身・心を捧げて取り組んでいる人々に対して、初めて善・悪というものが、如何に相対的なものかということを痛省せしめられるわけである。

 

随ってこのような人にして、初めて「善・悪の相対性」というコトバも、単なる観念としてではなく、その人の深い体験によって裏づけられているために、聞く人々の心に響く力を持つかと思われるのである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月26日(木)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第4節「善・悪の相対性」の1回目で、「善を力説する人々は道徳への関心が強く、悪を力説するのは宗教的関心の深い人」と述べています。

 

善・悪の二つについて、わたくしはその何れか一方のみを絶対視し、他を軽んずるような立場には立たず、また善・悪の質的相違を重視せず、両者をほぼ同等的に見る立場も執らなかったといってよい。両者は互いに相対的でありつつ、そこには厳たる質的相違の存することを看過せぬ立場を堅持してきたと言ってよい。

 

では何故にこのような立場に立とうとするのであろうか。それというのも、善について力説する人々の多くは、道徳への関心のより強いという場合が多く、これに反して悪の根深さを力説する人は、とかく宗教的関心の深い人といってよいであろう。

 

そこで問題になるのは、わたくしのような、それぞれに顕著な特質を有しながら、そこから優劣の差異を見ようとしない立場である。このような立場に立つ者は、道徳・宗教の何れに対してより深い関心を抱くというべきであろうか。

 

宗教の立場というものは、善・悪という立場からは、必然に善・悪の両者を越える立場でなくてはなるまいが、それには、以上に述べてきたような立場がそれに応わしいかと思うのである。それというのも、あまり善を重視する立場からは、たやすくは入り難いとも言えるからである。

 

ではかような立場に立つ時、いかなる問題が重要とされるであろうか。かく考える時、善・悪の相対性という問題について、改めて考察の要があるかと思うのである。何となれば、この善・悪という問題について、その意義の重大さにも拘らす、それに相応しいほどの省察が為されていないのではないかと思われるがゆえである。

 

それは如何なることかというに、善に対しては、人間としての当然のことだとしても、その実現の容易ならぬ点に関して、その省察が怠われているかに思われるのである。即ち何ゆえ善行を行わねばならぬかを問題にする人は、比較的少ないのではあるまいか。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月25日(水)京都北野天満宮梅花祭。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第3節「悪の根源性」の3回目で、「相手の存立をおびやかす場合、それを悪と言う」と述べています。

 

普通「万悪の根源は人間のエゴに基づく」と言われているが、人間は自己保存の本能を不当に拡大し、相手の自己保存の本能については考えず、仮に考えたとしても甚だしく不充分なため、相手の存立をおびやかすに到る場合があり、それを「悪」と言うわけである。

 

では、「善」については一体如何に考えたらよいであろうか。人によっては、悪が“いのち”への根ざしの深さを重視するあまりに、「善」に対する論議を不当に軽んじる向きもないではない。この傾向はいわゆる他力教の信者に多く見られるが、その点に関して、如何に考えるのであろうか。

 

悪は“いのち”への根ざしは深いが、その場合、端的には我々の肉への根ざしが深いということである。これに反して善への志向は、一つの行動を為した後、それに対する反省ないし自己批判の作用として、現れる場合が多いようである。随って人によっては悪と比較して、善は観念的であって、はるかに無力だとする人の必ずしも少なくないゆえんである。

 

この点に関して、確かに「悪」は自己保存の本能に根ざすとして、この肉体にその根ざしを持っているのであり、確かにその根ざしは深いといえるが、同時に「善」は我々の行動に対する批判の原理として照らすわけである。いわば一種不可視の霊光を以って、誤れる行為の不正ないし趣を、鋭く照らし出すといってもよかろう。

 

「善」を以って単に観念的で、無力だとする人々に同じ得ないのは、そもそも批判の原理というものは、一種の超越的な高さーーまたは深さから照射してくる“いのち”の叡知光といってよく、それを無力などと言えないのである。

 

だが、結論として、「悪」の根ざしの深さとその根源性をつねに内観凝視する要の切なることを痛省せざるを得ないのである。それに対して、「善を為さんとする前に、先ず悪を為さぬように」との、終身の戒語をもって人生を踏み出すべきかと思うのである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月24日(火)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第3節「悪の根源性」の2回目で、悪とは自分のため、他人を犠牲にすることを避けない心的傾向、ないし行動と述べています。

 

では、わたくし自身はこの問題に対して如何ように考えているのであろうか。だが、この点に関して答えんがためには、まず悪とは如何なるものであるかという点を明らかにしなければならぬであろう。

 

だがこれも根本定義ということになると、人によって種々異論が生じるおそれがあるゆえ、ここには取りあえず、何人にも異論があるまいと思われるものとして、悪とは自分のため、ある程度他人を犠牲にすることを避けないような心的傾向、ないし行動とも言えるのではあるまいか。

 

さらに一歩を進めて考察する時、では何ゆえ我われは、ともすれば自分のために他人を犠牲にしたり、ないしは障害や殺人等にまで到るのかーーという問題の新たなる象面が現出すると言ってよい。問題をここまで追求することによって、人間存在において、最も根深い本能は何かというに、結局「自己保存」であるが、同時にその積極的な発動としては、所謂「自衛本能」ともいうべきものが考えられるのである。

 

けだし、人間存在というものは、それの有する凡ての欲求のうち、その最大最深なるものは、結局はこの「自己保存」の欲求といってよく、それは時として対他的には、自衛本能として発動する場合も少なくないわけである。

 

人間における「悪」への情念及び行動は、もちろん長期にわたる計画的犯行も少なくないが、同時にまた、殺人の如き重大犯罪すら、真に一瞬転の間に行われる場合も、決して無しとしないと言ってよいであろう。

 

ではそうした場合、如何にして一転「悪」に陥るかというに、結局は自己保存の本能によるものであって、いわばこの本能の行使にあたり、自分の為のみを考えて、相手の立場、いわんや相手の為を考えず、バランスの破れた場合と言ってよいであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月23日(月)天皇誕生日。ふろしきの日。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第3節「悪の根源性」の1回目で、悪は善以上にはるかにその根ざしの深さを痛感せしめられると述べています。

 

善・悪という問題は、刃物を以って果物などを二分したりするような簡単なものではなく、

そこには実に複雑な“からまり”合いが存するのである。では、何故人間の行為には、複雑な“からまり”合いがあるかというに、それは己れ一人では生きられず、幾多の複雑な人間関係の中にあるからである。

 

だが問題は単にそれのみには留まらないで、その間において我々はとかく自己に有利なように振る舞いがちだからと言えるであろう。それは組織という点からは、不当な「自己中心主義」といえるが、これは古来「悪」の一語で表現してきたものに他ならない。

 

かくして普通には善・悪は、一種の対立的な相対概念であって、ほぼ同様の比重を持つものであるかに考えられ易いが、心の内奥につき仔細にこれを省みる時、悪は善以上にはるかにその根ざしの深さを痛感せしめられるのである。ここに「根ざし」というのは、我々自身の“いのち”に対する根ざしの深さをいうわけである。

 

このように言えば、ある種の宗教を信じている人々は、「だからこそ、われわれの信じる宗教では、悪人こそ救われると説かれている」――云々というであろう。だが数ある宗教の中には、それとは正逆の立場に立つ宗教もないわけではなく、前者が他力宗と呼ばれるに対して、後者は自力宗と呼ばれているのである。

 

ここでわたくしが言いたいのは、これらの人びとは、真に自己の“いのち”の内観によってというよりも、卓れた古人の打ち建てた教説へ寄りかかって、ものを言っている場合が少なくないかに思われるのである。

 

では一歩をすすめて、何ゆえ「悪」は「善」と比べて、“いのち”に対してよりその根ざしが深いと言えるのであろうか。これは実に重大な問題だと思うが、何ゆえ大きく取り上げられていないのであろうか。

「バカ」を肯定する「ノーリスペクト社会」の到来

 

2月21日(土)

 

かつて「日本人」と「勤勉」はセットであった。しかし勤勉なる日本人は神話と化した。実態は学び嫌いな日本人である。なぜこのようになってしまったのか?その理由を明らかにしつつ、日本人の向学心を取り戻すための方策を提言するのが「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(斉藤孝著、2008年講談社)である。

 

「バカ」を肯定する「ノーリスペクト社会」の到来

 

「バカ」とでも表現するしかない事態が日本を侵食している。ここでいうバカとは、学ぼうとせず、ひたすら快楽にふけるあり方のことだ。学ぶ意欲が内発的に起きてこない、学ぶ道があるのにゲームやメールに時間を注ぎ込んで疑いを持たない日本人が増えている。

 

では、なぜ学ばなくなったのか。それは「リスペクト」という心の習慣を失ったからである。かつての日本人には、何かに敬意を感じ、憧れ、自分をそこに重ね合わせていくという心の習慣が自然に身についていた。それを象徴するのが仏教の教えである「仏法僧の三宝を敬う」だ。

 

ところがある時期を境に、日本では「バカでもいいじゃないか」という空気が漂い始めた。そこには教養への敬意はないし、学ぶべき書籍の価値もわからない。先生への畏敬の念もない。つまり、「ノーリスペクト社会」」が到来したのだ。自分という核を持たないまま、ひたすら「何か面白いものはないか」と探し回っている。世の中はこれを「自分探し」と称している。こういう風潮は1980年代頃からだ。

 

こうした問題を見ると、今は「心の安定」を失いやすい時代なのではないかと思われる。こういう世の中になったのは、ここ20年のこと。これは「心の不良債権」だと言えよう。リストラが当たり前という殺伐とした社会のあり方が、心にまで影響を与えているのである。

 

現代日本人の心のあり方は、米国の若者のそれを反復している面がある。戦後のライフスタイルは、完全に米国文化に支配されてきた。「アメリカン・マインドの終焉」の著者、アラン・ブルームは分析している。「本には縁のない学生たちも、音楽となると彼らの情熱の対象であり、音楽ほど彼らを興奮させるmのはない。彼らが願っているのは、ただ自分だけの世界にひきこもることだ」。これはまさに、今の日本の若者そのものだ。

 

教養を身につけるーー哲学や教養が生きる力の根源となる

 

1950年まで国立大学の予科として存在していた、旧制高校の学生から学ぶことが多い。旧制高校では、文系理系を問わず、哲学が基礎教養として共有されていた。また第一外語は英語だけではなく、フランス語やドイツ語などを選択する学生も相当数いた。欧州の国がもつ思想の深さ、文化の豊かさに触れる人が数多くいたのだ。

 

哲学を「学ぶ」ということは、自分の思考の基本スタイルを作る作業でもある。旧制高校生の中には、大学卒業後に企業人、経営者になった人も少なくない。経営者に強靭な精神が求められる。哲学の基礎があったからこそ、その後の人生を揺らぐことなく歩めた人も多いはずである。

 

教養主義をくぐり抜けてきた最後の世代は、今80歳代になっている。日本経済が最も発展した時代に会社を経営してきた彼らが、日本の経済・文化をリードしてきたことは紛れmぽない事実だ。彼らは哲学や一般教養を学び、それによって精神的タフさや粘り強さ、勉強することを楽しむ向学心を身につけていった。

 

日本全体をレベルアップさせたのは、そういう若者時代を過ごした人たちであることを、現代世代は看過してはならない。教養に加え、もう1つ注目すべきは価値観の問題だ。だれもが自分の利益を優先させる傾向にあるが、旧制高校には、自分の成功より優先すべきものがある、という倫理観があった。

 

例えば、自分の置かれている状況を常に意識し、自分が日本に対して何ができるかを考える。こういう要請を、自分自身に課していた。今後の日本には、金儲けの才能を持つ人は多く出現するだろう。だが、自分が日本を支えるという気概や、多くの人を雇用して幸せにしたいという意識を持つ人は、どれだけ現れるだろうか。

 

教養をリスペクトする人が社会のリーダーとなり、成功していく。これが明治以降の社会だった。だが今は、就職にしても「学歴不問」を打ち出す企業が登場してきた。社会的に大学教育を軽視し、身につけた教養を無視する傾向が続けば、中高生は勉強しなくなるだろう。

 

日本人の最大の財産。それは脈々と受け継がれてきた「学ぶ心の伝統」である。学ぶ心は、ひとりでに身につくものだはない。学ぶ先人の姿に憧れを感じて、自分も学びたくなるのである。こうした「憧れの連鎖」が、世代から世代へと受け継がれて社会は幸福だ。