友川カズキ | パチンコP3 プレジー3吉 OFFICIAL BLOG

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元パチプロP3のノンフィクションブログです。自伝、攻略記事、雑記など。また、もうひとつの顔である歌手プレジー3吉のライブ情報などを掲載しています。

蓮沼ラビィさんという僕の心にピストルを撃ち込んだシンガーがいる。 
出会ったのはほんの数ヶ月前だ。 

 
 
もともと僕は感受が強く、他人にすぐ影響を受けてしまうのだが、
めっきり三〇歳を過ぎてからそういう機会も減った。
気付けばアラフォーと言われる年齢になったのだから、年月とは無情に早く突き進む。 
 
 
 
僕の歌は過去の歌が多く、
今を書けとよく言われてきたのだが、
僕にとっては、過去という明日であり、今と言う過去でしかないわけなのであり。
蓮沼ラビィさんが面白い事をブログに書いていたのをたまたま見てしまった。 
 
 
 
 
 
 
  
これを読んだら、人前で歌うことを始めた頃を思い出した。
僕の身近な人は誰もが知っている、歌を始めたキッカケ話し。 
 
最近では自らあまり話さなくなったし、
聞かれもしなくなったなあ。
今一度、あの頃を思い返してみよう。 
 
 
 
 
 
 
時は2002年に遡る。
僕は当時、生まれ故郷の三重県伊勢市にいた。
大阪の専門学校を、パチンコ依存症になった理由で退学し、
父親の元、土木作業員をしていた。
家が建設会社なものでね。 
 
 
 
まだ22歳だった僕は、
親不孝を時間をかけて清算すべく力仕事に明け暮れていたわけなのだった。
長男ゆえ、当然、”次期社長”である。
毎朝7時に起き、17時まで働き、家に帰れば何もしなくてもご飯や酒が出てくる。そして疲れて寝て、また朝が来る。
休みに遊ぶ場所はパチンコ屋くらい。
その、今思えば当たり前の幸せの有り難さが、若い僕には分からなかった。 
 
 
 
「退屈な田舎の毎日....。」  
 
 
 
 
僕はそんな毎日の中で、高校から始めて趣味にしていたフォークギターを掻き鳴らし、オリジナルの歌を歌い続けた。
缶チューハイ片手に、その時浮かんだ詩を書き、ラジカセにカラオケマイクを差し込み、ゴミ箱の上にマイクを置いて録音した。 
別にそれを売るわけでもなく、ひたすら歌を作り、録音したカセットテープが手元に増えていった。

 
 
当時、僕がハマっていたのが、”友川カズキ”さんの歌である。(旧.友川かずき)
彼の歌に出会ったのは、さらに1年以上前のこと。
確か記憶が正しければ、初めて友川さんの存在を僕に教えてくれたのが、
プレジー3吉ファーストアルバムのジャケットデザインをしてくれた、佐藤兄弟だろう。
 
 
 
初めて耳にした友川さんのアルバムは、
「秋田コンサート」。 
 
 
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今聴いても鳥肌が立つ名盤だ。
その後に聴いたのが、中原中也の詩を歌にして作り上げたアルバムだった。
今まで聴いてきたフォークソングとはかけ離れた友川さんの歌の世界。 
 
 
魂から手が飛び出てきて胸ぐらを掴まれ、
「おい、おまえ、生きてから死ねよ!」
て言われてるような。
その歌い声は衝撃的だった。
フォークなのにパンク?
美しい歌声なのに、時に声を心臓から吐き出すように歌う。 
僕の心に初めてピストルを撃ち抜いたのが、友川さんなのだ。

  
 
ありとあらゆる友川さんに関連するCDや本を集めるわけだが、
ある時、イーターというアングラな雑誌に、学芸大学アピア40(当時、渋谷アピア)のマスターが、友川さんのことを書いてる記事を読んだ。
その時僕は、友川さんが今なお毎月ライブハウスで歌を歌っているのを知った。
アピアのマスターが、
「僕はたくさんのミュージシャンを見てきたが、未だ友川かずきを越える人はいない。」
と書いていたのが印象的だった。 
 
 
 
どうしても友川さんに会いたくて、僕は友川さんが歌っているライブハウス、渋谷アピアのテープオーディションを受けた。
そんな凄い人に会わずして死ねるか!! 
 
 
 
だが、今思えばなぜオーディションという形を選んだのか?
ライブを観に行けばいいだけなのに。
ミュージシャンになりたくて?それはない。
そう、都会への夢が捨てきれずにいた。それもある。
田舎を出て行く理由が必要だったのである。
退屈な日常から逃げ出す口実。
そんな時に作ったのが、”初めての晩”という歌であり、
親に対する後ろめたさを感じながら、自分のやりたいがままに突き進む意思を書いている。 
 
 
 
テープを渋谷アピアに送ったものの、なかなか合否通知の連絡がなく、半ば諦めていた頃に突然、実家の電話が鳴る。 
「いちおう合格です。」 
 
 
 
いちおう、なのだが、合格したのだ!
胸が震えた。あのCDの声の持ち主に会える!倒れて気絶しそうなくらい、ほんとに全身に洪水が流れ落ちたのを覚えているよ。 
 
 
 
初めての僕のライブは、
2002年9月、渋谷アピアの昼の部。
トリが”二人三”というバンドだった以外、タイバンは記憶にない。
僕のステージネームは、
”プレジー3吉”だ。
なぜこんな変な名前にしたかだって?
誰もが一度見たら、聞いたら二度と忘れないようなインパクトある名前にしたんだよ。
プレジーとは、プレジデントからきている。大統領という意味だ。
3吉は、俗に言う田舎の屋号である。
小さい頃からその名で呼ばれてきたから。本名じゃないんだけどね。(笑)
 
 
 
どうせやるなら一番目立たないと意味がないと思ったから。
若い頃の僕の歌に卑猥な言葉がたくさん出てくるのも、誰も作らないような歌を意図的に書いたから。
ファッションはわざと汚らしい格好にし、貧乏臭い格好で東京に深夜バスで向かったのを覚えている。 
 
 
 
初ステージの一曲目は、忘れもしない。ファーストアルバムの1曲目、先ほども書いた”初めての晩”だった。
いざライブを経験すると、人前で気持ち悪いことを歌い、異質扱いで見られることに快感を覚えてしまった。。
数ヶ月のバス通いライブの後に、翌年春に上京した。 
 
 
 
2003年6月、早くもその日は訪れる。
友川さんの前座ライブを渋谷アピアでやらせてもらった。夜の部。
前座をやらせて欲しい、とずっとアピアのマスターやスタッフに言い続けた夢が叶った。
昼の部から夜の部に変えてもらった理由は、夜の部に出てるミュージシャンの方が個性的だったからだ。 
 
 


とうとう会えた、友川カズキさんの歌。
ライブで聴くその歌は、CDじゃ味わえない感動だった。
自分が何を歌ったかまでは覚えてない。
とにかく友川さんの歌に泣き、ずっと興奮していたのを覚えている。
その後、もう一度、友川さんの前座をしたことがあったが、それ以来、共演はない。 
 
 
 
一時期、友川さんにつきっきりになり、すごく良くしてもらった時期もあったが、影響を受けすぎ、僕の歌い方が友川節のモノマネと言われるようになり、自分を見出す意味もこめて、友川さんから離れた。 
 
 

意図的に歌い方を変えてみたり。
もう何がなんだかわからなくて音楽を辞めていた時期もある。
挫折のたび、何度も田舎に帰ろうと思ったが、現.アピアの店長に助けられ、今に至る。 
長くなったが、これが歌を始めてからの経緯だ。
 
 
 
もうあの初めてのライブから14年も経ったのか。
今はどうだ?
過去に夢見た自分になれてるかな?
都会に来て良かったと心から思えるか?
友川さんに受けた感動を、どこかに置いてけぼりにしてない?
 
 
 
四十歳を目の前に、今一度自分を見つめ直す。
やりたいことがやれてるとは言い難い。
ただなんとなくじゃだめ。
あの時、父の反対を押し切ったあの意志の強さ。
歳を取ると様々な衰えを痛感する。
それでもアーティストは自分と闘い続け、創作を続けるのではないだろうか。  
 
 
最初は友川さんに会いたい理由でギターを持って歌った。
今は僕も一、アーティストであり、良い歌を、より多くの人に伝えたい気持ちがある。
もちろん、気持ち悪い言葉を意図的に選んで詩を書くようなこともない。
自然にそうなることはあるけどね。
あの時、アピアのオーディションに落ちていたら、人前で歌を歌うことはなかっただろう。
 
  
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生きて死ぬために。
また1から歌い直そう。 
「生きているって言ってみろ」に対し、
「結局何にもできないよ」と歌った若きプレジー3吉。
 
 
もはや僕は僕の奴隷でしかない。 
 
 
 
生きるのだ。 
 
 
 
 
 
 
2016.9.19 プレジー3吉
  
  
  
余談だが、アピアの長い歴史で、
履歴書をテープと共に送ってきたのは、僕だけのようだ。(爆笑!)


 
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↑10年前 高円寺アローンにて。
若きプレジー3吉