今回のハートキャッチも、色々と考えさせられました。
自分が思う自分と、他人から見た自分は違うのだということ。
一見、何の不自由も無く人も羨む境遇の者でも、悩みはあるものなんですね。
悩みは誰にでもあるものです。
でも、身近にいる家族でさえ、その事に気付いてあげるのは難しいものです。
反対に、自分がいかに幸せであるか、という事も自分自身では気付きにくいものなのかもしれません。
えりかは、姉を羨ましいと思い自身の不幸を嘆きます。
姉は、えりかの事を羨ましいと思っています。
・・・実は2人とも幸せであるにもかかわらず・・・。
「寒さにふるえた者ほど 太陽の暖かさを知る。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る」
アメリカの詩人の言葉です。
最初、えりかを見たとき、はっきり言って良い印象を持ちませんでした。
ムードメーカーと言えば聞こえはいいですが、お調子者で、人の気持ちも考えない、自分勝手な嫌な人物なだけじゃないか。
そう思いました。
今作は「心の花」という形で普段は表に出る事のない「人の本音(悩み)」を聞く事が出来ます。
そんな、えりかの「心の叫び」を聞いたとき、私がいかに えりかの事を誤解していたか思い知らされました。
つぼみとは表現方法こそ違えど、自分なりに悩み、努力し、傷つきながらも真剣に生きる女の子だったのです。
一見、生意気に見えるその態度も、本当は弱い自分を鼓舞するためだったのです。
えりかは、カリスマモデルである姉の良いところだけしか見ず、姉への羨望と自己嫌悪に陥っていました。
私もえりかと同じだ。えりかの表層的な部分だけをみて分かった気になっていた・・・。
悩み、コンプレックスを持ち、心の痛みを知っているという事は決してマイナスではありません。
「どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものが分からないから。」
挫折や、悲運により流した涙の多さが人格を鍛え豊かな人間的魅力へとなっていくのだから・・・。
今では、私はえりかの事が大好きになりました。
悩んで、羨んで、背伸びしたがるえりか。
その姿は、とってもちっぽけです。
でも、そんな等身大の彼女を愛してくれる沢山の友人に囲まれ、ムードメーカー的なえりか。
それでいいのではないでしょうか。
「日の光を借りて照る 大いなる月たらんよりは 自ら光を放つ小さな灯火たれ。」
森鴎外の言葉です。
社会にでても、お偉いさんの腰ぎんちゃくのようになり「虎の威を借る狐」みたいな人がたくさんいます。
不器用であったとしても、自分は一個の人間でありたい。
自分の負の部分を否定し「打ち勝とう」とすることが幸せなのではない。
「己を全きもの」として受容し肯定する。その先にこそ真の幸せがある。
今回のプリキュアを観ていたら、そう思った。
端で見ているよりも「カリスマモデル」というのは大変なようです。
ギリシャの物語で「ダモクレスの剣」というお話を思い出しました。
シシリア島シラクサという国の王様「デュオニッソス」とその家来「ダモクレス」の物語なの。
家来のダモクレスは、王様の優雅な暮らしに憧れていたの。
それをみた王様は「ダモクレスよ、王者の席に一日座ってみるがよい。」と一日だけ王様の席を譲ってあげるの。
大喜びするダモクレス。
最初の内こそ、ご馳走を食べ、美女をはべらせ、ご満悦だったんだけど、
やがて、気付くの。
王としての重い責務と神経が擦り減る程のプレッシャー、そして孤独感に・・・。
ダモクレスの歓喜は、恐怖に変わり、王座に座っている間、顔は蒼白に、冷や汗が吹き出し、生きた心地もせずブルブル震えていたの。
王は、笑いながらダモクレスに言うの
「これが、王という私の地位だ。王者の身辺はいつも重責と緊張に満ち溢れている。見かけほど居心地の良いものではないぞ。」
隣の家の芝は青く見えるということですかね~。
等身大の自分を知ることが大切だという戒めの物語です。
「プリキュアを観て、考えること」
それが、私の幸せです。だって楽しいんだもん。
じゃぁ、また明日!