「やっと目がさめたよ。ははっ・・・メビウス様から見たら、オレはゴミのようだ。」
「ともに笑いあう時間もないのが・・・残念だ。」
そう言って、プリキュア達に力をかした後、デリートホールへと消えていった二人。
思い出すたび、胸が締め付けられ涙が出てきます。
「人の将に死なんとするや、その言や善し。」
文字通り、「死に直面した人間の放つ言葉は、峻烈で重々しいものだ」という意味です。
やっと分かり合えたのに、消えなければならないなんて・・・。
彼らが残した言葉が、嘘偽りのない心からの叫びだったからこそ、私たちの胸をうつのでしょうね。
前回のブログの、ある方のコメントに「死んだらどうなるんスかね?」というのがありました。
私はあえて、コメ返しをしませんでした。
その方が、大嫌いだったからです。
ウソです!(ごめんなさい 「ウ」大好き丸さん)
簡単なコメントでお茶を濁したくなかったのです。
私の知ってる事を出来るだけ、理解しやすい言葉で伝えたいと思います。
ちょっと長くなりそうですがお付き合い願えればと思います。
私たちは、なんとなく「死んだら天国に行くのかなぁ」とか漠然と思っています。
これは「民衆信仰」と言われるものです。
その国や地域によって、それぞれ なんとなく「こんなんかな~」と信じられているという意味です。
日本では「天国と地獄」 インドでは、根強い「輪廻転生」(死んだら生まれ変わることです)が信仰されています。中国には「魂・魄」という考えがあります。(「こんぱく」「こんはく」と読みます。あなたの好きな「ブリーチ」ですよ~)
これらは、個人的に、言葉は悪いですが「迷信」だと思っています。
じゃあ、歴史的な人物は、どんな風に考えてたんでしょうね?
おなじみの「キリスト」「釈迦」「孔子」「老子・荘子」が、どう考えていたか、大雑把ですが見てみたいと思います。
【 キリスト 】
「死後の世界なんて分かんない。余計な心配すんなよ~。」と言っています。
「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」(新約聖書 マタイによる福音書6)
「あすのこと」とは死後の世界を含めた未来のことを指します。
【 釈迦 】
「分からないから、考えちゃいけないよ~」と言っています。
釈迦は、弟子から「死後の世界の有無」を聞かれたとき、はっきりと返答を拒んでいます。他の人から、死後について議論を吹っかけられた時も、黙って答えませんでした。
これを「捨置記」と言います。まぁ、ぶっちゃけ「考えたってしょうがないじゃん」ということです。
【 孔子 】
「考えたって無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァァァァッ!」(ゴールドエクスペリエンスふうに)と言ってます。(だんだん壊れてきましたよ~)
「論語」の中に、孔子と季路の問答があります。
「神様に、どの様にお仕えすれば良いのですか?また、「死」とはなんですか?」と季路はたずねました。
孔子の答えは
「神について考えてもしょうがない。神に仕える位なら、人に仕えよ。死など考えてもしょうがない。生もわからないのに、どうして死がわかろうか。」というものでした。
【 老子・荘子 】
「わかんね、生きても死んでも、同じようなもんじゃね?」と言っています。
生きていることが素晴らしいことで、死ぬことが駄目なことだとは誰が言ったのか。
そんな事は、分かろうはずがない。なぜならば、この世の者は、死んだことがないし、死んだ者は生きている者に伝える術を持たないからである。
この「死」を怖れ、生に執着することが「人間の妄執」だと言っています。
この「妄執」の束縛からの解放こそが、老子・荘子が説いたことです。
これを「卍解」・・・違った「県解」といいます。
こうして、みてみると 実はみんな、共通の答えだ というのが分るかと思います。
考えたってわかるわけないということです。
「これを知るは、これを知ると為し、知らざるは、知らずと為す、これ知るなり。」
孔子の言葉です。
「勉強をする」という事は、知っている事を知っているとし、知らない事は正直に知らないとする事だ。それが「知る」という真の意味なのだ。ということです。
「無知の知」なんて言ったりします。
この世の中には、「知らない事」を「知っている」と為し、人心を惑わせ、欲を貪る下劣な人間がたくさんいます。
自分というものを、しっかりと持って、「真実を見抜く目」を養ってくださいね。(エラそうですみません)
さぁ、もうすぐプリキュアですよ~。
遠足前の小学生のように、興奮して寝れませんよ~。あ、鼻血が・・・(こらこら)
また、あしたぁっ!