内閣官房長官や自民党幹事長などを歴任した野中広務氏が,1月26日に多臓器不全のため92歳で逝去した。 
 野中広務氏は,旧制京都府立園部中学校を卒業後,日本国有鉄道大阪鉄道管理局に勤務したが,1951年に園部町町議会議員選挙に,1958年には園部町町長選挙に,1967年には京都府議会議員選挙に初当選した。さらに,自民党京都府連政調会長を経て,1978年には京都府副知事に就任した。
 国政選挙では,1983年の衆議院議員補欠選挙において,旧京都2区から立候補し初当選。以降,衆議院議員を連続7期務めた。村山内閣では,自治大臣・国家公安委員長として初入閣をした。1995年の阪神大震災時には,自治大臣として被災地対策に尽力し,同年のオウム真理教事件では,教団に破壊活動防止法を適用するよう主張した。小渕恵三内閣では官房長官,森喜朗内閣では党幹事長を務めたが,小泉内閣では小泉首相と対立し,2003年の自民党総裁選では,小泉氏を支援する青木幹雄参院幹事長(当時),片山虎之助総務大臣(当時)らを批判。「毒まんじゅうを食らったのではないか」と発言し,流行語となった。総裁選で小泉氏の再選を前に大敗したのを契機に,2003年をもって政界を引退した。
 その後,自らの戦争体験を踏まえて憲法や戦争と平和,政治の原点をテーマに活発に発言を続け, 97年4月の米軍用地特別措置法改悪の際,担当委員長として衆院本会議で「この法律が沖縄を軍靴で踏みにじる結果にならぬように…。国会の審議が再び大政翼賛会的にならないように,若い人にお願いしたい」と自らの思いを発言。,憲法9条に関しては「憲法9条を変えてはいけない」「私の生ある限り戦争体験のある私が戦争の歴史を語り継ぐ『語り部』となっていきたい」などと主張していた。
 野中氏の政治手法は「武闘派」「豪腕」と呼ばれる一方で,社会的弱者に心を寄せ,「義理人情に厚い」「気配りの人」と慕われる一面もあり,大手以外のマスコミの取材にも強面ながら非常に柔軟に応えてくれていた。 
 改憲がいよいよ 現実味を帯びる中,野中氏はどのような思いで国会での憲法論戦を見ているのだろうか。