8月の「原爆の日」を前にして、昨年8月、NHKスペシャルで放映されたドキュメンタリー番組「封印された原爆報告書」が、8月4日午前0時過ぎから再放送された。アメリカ国立公文書館にGHQ機密資料として、1945年、広島と長崎に投下された原爆の調査報告書、181冊、1万頁が、長年、封印されて眠っていたというのである。今年になり、「科学ジャーナリスト賞」と「放送文化基金賞」を授賞したが、何回も見て繰り返し考える価値がある。

<米国内に封印されていた原爆調査記録>
  
  調査は米軍による原発投下の2日後の8月8日から日本陸軍医務局により始められ、8月15日の終戦後は、全国の大学などから1300人の医師や医学生を集めた国の調査団により行なわれたが、調査の記録や報告書は英訳されて、すべて日本を占領中の米軍に引き渡され、アメリカの核戦略のために利用されたというが真相だという。それでいて、日本では公表を禁じられのたか(よくわからい)。63年も封印されていたのだが。

<投下直後から日本が独自に始めた原爆調査>

  何故、こような調査が日本により独自に始められたのか。終戦の頃、日本では原爆研究を独自に行なっていた。投下16時間後に、トルーマン米大統領が、広島、長崎に投下した爆弾が原爆であることを世界に宣言したので、政府と陸海軍は原爆研究に携わっていた関係者を中心とする調査団を急遽、広島に派遣して、原爆であることを確認した。8月10日に広島で陸海軍合同検討会を開き、報告書を作成。その日のうちに日本政府が、「新型爆弾の使用は国際法違反である」という抗議を中立国スイスを経由して米国に伝え、国際赤十字に提訴したが、国内に対しては終戦前日の8月14日まで原爆投下を隠していた。軍部が戦争継続を考えていたからだと言われている。
  
<大掛かりな日米合同調査>
  
  終戦後の8月30日、マッカーサー連合軍最高司令官が厚木基地に到着すると、GHQから原爆を開発した米国の研究機関であるマンハッタン管区調査団に協力するように指令が出された。日本側では、36人の研究者と医学生21人、これに旧陸軍医学校や陸軍病院のメンバーが協力し、日米合同調査団が結成され、10月12日に広島入りして調査が始まったという。  
  広島と長崎では20万人以上が亡くなり、11万人以上が重軽傷者であった。この人たちを対象にして大掛かりな調査が行なわれたのである。広島に設置された旧陸軍病院宇品分院では、6000人の原爆被曝した患者が収容されていたが、2ヶ月間にわたり患者をモルモットにした研究が行なわれたという。
  200人を超す死体解剖の記録がある。14冊の報告書にまとめられ、解剖標本を付けられアメリカに送られた。日本に返還されたのは、27年後の昭和47年だった。いまは広島、長崎の大学に保管されているという。

<学童の爆死資料が使われた恐ろしい企み>

  なかでも惨いのは、非戦闘員である学童の爆死をソースにした調査報告書である。広島に原爆が投下された8月6日は月曜日で、投下された午前8時15分には動員された学童17000人がまとまった場所にいた。学童の被曝した場所と死亡者の数から殺傷力を確かめるサンプル調査をしたのである。例えば、爆心地から1.3キロの地点では、132人中50人が爆死したが、0.8キロの地点では560人全員が爆死したとうものである。
  この報告書は米国に持ち帰り、米陸軍病理学研究所で「原爆の医学的効果」という6冊の論文にまとめられたが、爆心地からの距離と爆死者の数により求められた原爆の殺傷力を示すグラフが「死亡率曲線」だった。
  このデーターが冷戦時代の米軍の核戦略の基礎になったというのだ。ソ連の都市を壊滅するには広島型原爆が何発必要かである。モスクワは6発、スタンリーグラードは5発というようにである。
  それにしても、幼気ない学童の死が、このような企みに使われていたとは、恐ろしい話である。

<何故、報告書は封印されたのか>
  
  合同調査は1946年9月に終わり、収集した資料は米国に持ち帰り、アメリカ側は合同調査の内容を、同年11月、「日本における原爆の医学的効果」として報告している。日本側は学術研究会議の「原子爆弾災害調査報告集」のなかで報告されているという。しかしアメリカの報告も日本の報告も、当時の日本の新聞には記事がないのだ。
  当初は原爆を研究しているソ連などから原爆の秘密を守るため、公表が禁じられたと考えられるが、60年以上も極秘である必要はない。ちなみに、マッカーサーの命令で、英文の報告書を1部、日本語を5部作られているから、日本国内に報告書があった。米国立公文書館でなければ閲覧できないものではない。
  
  終戦直後に、昨日までの敵国アメリカに協力することは、国賊に類することだったのではないか。公になれば国民から指断される。隠蔽したのは日本であったのではないのか。
  調査は米軍が投下した原爆の効果を実証するもで、その後の原爆研究に必要なものであった。いわゆる戦利品である。日米合同調査団の学者や学生たちは、GHQの命令で協力したが、憤りや屈辱を感じていたという人がいる。1995年に「米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本」の著者で笹本正男さんである。
  笹本さんは占領史研究家であるが、封印された原爆調査報告書のことは、知っていたようだ。彼も国辱だという。報告書が秘匿された理由は日本側にあったのかも知れない。
    
<原爆症認定に道を開いた原爆資料>

  封印されていた原爆資料の中に、被曝した当時19歳の医学生が書いた「私の原爆症」という手記があった。医学生は直接被曝していないが、投下4日後に広島に入り、高熱や喉や歯茎の痛み、出血班など、直接した人と同じ症状を発症した。新聞で被爆者の症状を読み、「私の症状とまったく同じだ。私も原爆の被害者になってしまった」と手記に書いていた。
  医学生のように直接被曝していないが、広島、長崎に入ることで放射線被曝したことを「入市被曝」と呼ぶ。当時、調査団の東大教授から書くように勧められた医学生の日記が英訳されて、GHQへの報告書の一部になっていたのである。手記には最後に「もしこれが役立つなら幸せである」と書いてあるが、報告書の一部になったことは知らなかったという。

  「入市被曝」については、訴訟において長年、国が否定してきたが、3年前に63年も経ってようやく認定基準で認めた。封印された原爆報告書が公表され、医学生の手記の存在がもっと早く分かっていれば、国の態度も早く変わっていたろうにといわれている。
 
<福島原発の汚染は広島原爆29.6個分>

  ともかく、いま日本では原子力が問題になっている。千分の一秒以内に一回放出された広島、長崎の原爆の放射線と長時間放射される福島第一原発事故で放出されている放射線の量では、原発が原爆よりも多い。汚染は広島原爆の29.6個分といわれる。原子力を人間が制御できないなら原子力に安全はない。