毎年8月になると戦争の話題が新聞やテレビなどで報道されるが,戦争を体験していない若者も歴史や戦争体験談を人から聞こうということだけではなく,積極的に自ら戦争を考えることによって,そこから新しい何かが生まれてくると思う。
真珠湾攻撃で単身敵艦に体当たりした特攻隊員の死生観について,特別な思いではなく,入隊時から,死は覚悟していて,それが隊員としての当たり前の思い出もあり姿でもあったのだ,私の経験からもそう思う。
私も昭和18年の12月1日陸軍船舶工兵として,宮城県石巻市の東部90部隊に入隊し上陸用艦艇の訓練を受け幹部となったが入隊当時すでに特攻隊と同じように死は覚悟の上であった。隊員の中でも死について語ることはなかった。軍人として死は当たり前のことであって,あえて話題になることはなかった。
誰も黙って,第一線の戦場におもむいたのであった。
19年の秋には18歳の新入営者を受け入れ,3~4ヶ月の訓練の上全員樺太に送り出し北方の守りに当たることになったが,その時点で私も随行を申し出たが受け入れられなかった。それは改めて死を覚悟の上の申し入れだったのだ。
この部隊が北方の守りに着いたけれど終戦後1日~2日経ってから,突如として樺太北方から南下したソ連軍の総攻撃にあい,なすすべもなく日本の暁部隊は壊滅してしまったと伝えられている。
喜び勇んで任務に着いた若き18歳の命がはかなくも北海の島に消えていったことを今でも心に残る戦争の悲惨さを呼び起こさせてくれる出来事である。
初年兵を第一線に送り出してから,私もまもなく単身赴任で半蔵門の東部軍司令部に属する畄守業務部に転属を命ぜられ,3月1日石巻から三宅坂の事務部隊に着任した。(現在の社民党本部の場所)
まもなくの3月10日には米軍のB29におる帝都大空襲に直面した。焼夷弾が「ヒュー」「ヒュー」という音を立てて,雨あられのごとく降ってくる。我々軍人でもこれを防ぐ手立ては全く無い。防空壕に入って難を逃れるより仕方がなかった。防空壕の入口から見た目の前の光景は,海軍省の鋼板葺きの屋根が焼夷弾による火災で青い炎を上げてめらめらと燃える姿は無惨でもあった。
事実上この大空襲によって,勝敗は決したように思われたが,私たちはそれほど切実感は無かった。まだ敗けるとは思っていなかったのだ。だが翌日お堀の渕を通って半蔵門まで視察した。街路樹の柳の根元の枯れた部分からは煙が出て燻っている。昨日の戦禍を物語っていた。もちろん海軍省の建物は跡形もない。道路にも人影はない。死と化した帝都の姿であった。
それから数日後,畄守業務部は山梨県韮崎市韮崎中学校に疎開することになったと伝えられた。疎開の経過やいきさつは伝えられていないので定かではないが,3月10日の大空襲による避難措置であったことは間違いない。
疎開先である韮崎中学校を選んだのは畄守業務部隊長の柳本冨士雄大尉であったと思う。韮崎中は柳本隊長の出身校でもあり,実家も近くの村だと聞いていた。
韮中に移ってから,私は柳本隊長から直接特命を受けることになった。「今や我が隊も本土決戦に備えて,食糧の自給を図ってゆくことになった。ところでお前は入隊前には東京府農会の食糧増産の技術員だった。この隊の中で農学校出身はお前だけだ。とりあえずこの隊員200名程の人員を自由に使っていいから校庭を耕し,じゃがいもやさつまいも,かぼちゃなどを作る仕事をして,隊の食糧補給をしてほしい」との特命を受けることになった。
早速農会に出向き,校庭を耕すためのスコップが50本位あったのか,とにかく全部を集め,校庭の掘り起こし作業は始まった。午前午後二時間位の交代で,見る見るうちに韮中の校庭やグラウンドは耕され畑と変わっていった。
馬鈴薯の種も,南瓜の種も農会にあるだけ買い集め播付をしたものの肥料分のない土地からは満足のゆく作物は育たなかった。
そこで思いついたのが農家で人手不足などから耕作ができなくなった畑などを探そうということになり,山梨県の中巨摩郡一帯を探し歩くことになったが,なかなか適当な場所は見つからなかった。
百祈春秋