最近、個人セッションを復活させました。
「運命の人と出逢い、幸せな家族を築く」
ダイヤモンドパートナーシップ・プログラム
お陰様であっという間にモニター枠が埋まり、そろそろ対応の限界に届きそうな予感です(^o^)
本当にありがとうございます!!
※ご興味ある方は、通常価格でのご案内となりますが、個別にメッセージいただければ対応させていただきます☆
そのセッションの中で、いつもお伝えしているのが・・・
「自分の本当の気持ちに正直になる」
ということ。
やりたいことをやる
やりたくないことはやらない
自分を自分で守ってあげる
これらを徹底していくことをオススメしています。
なぜなら、人は「愛されたい・認められたい」という、誰もが持っている根源的で自然な欲求を満たすために、いつの間にか、自分との約束よりも他人との約束を優先させてしまい・・・
その結果、自分への信頼を失い、自分との距離を創ってしまい・・・
他人から愛されたいがために、自分の愛し方を忘れてしまうからです。
自分が自分を愛していなければ、他人から本当の意味で愛されることはありません。
たとえ本気で愛してくれる相手があらわれても、「愛されている☆」と実感できないからです。
自分の気持ちに正直になるとは、自分の愛し方を思い出し、他人からの愛を受け取れるようになるプロセスにおいて、とても大切なことなのです。
けれども・・・
自分に正直になるとは、「一切ウソをつかないこと」とは違うのです。
ここがちょっと誤解を招きやすいところです。
厳密に言えば、「自分に対してウソをつかないこと」が自分に正直であることです。
つまり、他人にウソをついてでも、自分の気持ちに正直になろうとする場面というのが存在します。
僕の場合ですが、過去に演劇の世界へ身を置いていた時、「舞台に立ちたい!」という自分の気持ちに正直になるあまり、できもしないアクロバットを「できます!」と言い張りました(笑)
まあ、最終的にはできるようになって、辻褄があったのでよかったのですが・・・(~_~;)
この辻褄がまったくあわないまま、となると、これは「他人に不誠実」と認識されます。
いくら自分に正直であっても、他人に不誠実に生きていると、本当の意味で自分に誇りを持つことはできなくなります。
なぜなら、他人とは結局自分自身の投影であり、他人をないがしろにする生き方は、最終的には自分をないがしろにする生き方に通じるからです。
だから、自分に正直に生きるとは、「何でも好きにやらかしていい」という免罪符でもなんでもなくて・・・
むしろ、「自分の言動に責任を持つ生き方」なのです。
ちなみに、責任を持つという言葉に対して、重さを感じる人もいます。
そんな人は、責任を「負うべき責め・〜せねばならないこと」と認識していることが多いのですが・・・
ここで言う責任とは、「誰のせいか?」という、犯人探し的なものではありません。
英語で責任は「responsibility(レスポンシビリティ)」と言います。
「response(反応・対応)」と「ability(能力)」が組み合わさった言葉であり、つまりは「(出来事・物事に)対応する能力」という意味です。
自分に正直に生きると、様々なことが起こります。
それは予想外なものであったり、自分にとって不都合なことだったりします。
そういった出来事・物事に対して、放ったらかしにするのではなく、臆することなく対応していくことこそ、「責任を生きる」ということなのです。
そこには、「〜しなければいけない・〜せねばならない」という強迫観念は必要ありません。
ただ、自分の幸せを追求するという姿勢をぶらさずに、ただ淡々と対応し続けるだけです。
その先には、必ず幸せが待っています。
自分に正直に生きたはずなのに、なかなか思う通りに現実が動かない・・・
もし、そんな悩みを感じたことがあるのなら、正直に生きた結果に対して、責任を生きていないのかもしれません。
そして、責任を生きている人は、自分にも他人にも誠実です。
決して「わがまま・自分勝手・エゴイスト」といた評価を受けることはありません。
むしろ、全ての人に愛され、応援されるのです。
自分自身の在り方の指針として、そして同時に、他者と関わる時の判断基準として、「正直かどうか」と同時に、「誠実かどうか」を見ていくことは、とても重要です。
不誠実は、いずれ破綻・破滅を招きます。
破壊はその後の再生に繋がりますが、破綻・破滅はそこで終わってしまうイメージです。
なんて書いているそばから、「鎌倉市のゴミ出しルールが厳しすぎるから、ホッチキスの針くらい燃えるゴミで出しちゃっていいよね?」なんて、僕の中の不誠実なアクマくんが囁いてきます(^^;)
人って、弱い生き物なのですね(笑)