先日、劇団四季の最新ミュージカル「ノートルダムの鐘」ゲネプロを、家族招待の枠で観劇してきました。
ディズニーアニメのイメージが強かったため、「リトルマーメイド」のような華やかな演出かと思いきや・・・
全く違う!!
そこには、かつての劇団四季が得意としていた、重厚な人間ドラマが繰り広げられていました。
演出のテクニックや華美な舞台装置に頼らず、人間が持つ表現力に最大限委ねらたその舞台は、潔ささえ感じるほどシンプルでありながら、それ故に心の深い部分に突き刺さるメッセージを届けてくれました。
観劇後、心に深く残ったのは、ヒロインであるジプシー娘・エスメラルダを中心とした、複雑に絡み合う愛の形です。
主人公・カジモドは、エスメラレルダの美しさと優しさに心惹かれ・・・
大聖堂の護衛隊長・フィーバスは彼女の自分を貫く強さに心惹かれ・・・
司祭・フロローは彼女の自由奔放な生き方に心惹かれ・・・
それぞれが、エスメラルダの中に違った女性像を見て、それぞれなりのエスメラルダ像を創り上げ、それを愛している姿が、とても興味深かったのです。
一見すると、それらは全て、彼らが持っていない一面です。
カジモドは醜く、フィーバスは常に誰かのために自分の身を捧げ、フロローは規則・戒律にがんじがらめで生きています。
それでは、彼らは自分にない部分をエスメラルダに見て、そこに対する憧れを募らせたのでしょうか?
もしかすると、全く逆だったのかもしれない・・・
つまり、彼らは自分の本質をエスメラルダに見たのかもしれない・・・
そんなことを直感的に受け取ったのです。
詳しくはネタバレしてしまうので書きませんが、カジモドの本質は「美しさ」と「優しさに」そのものだし、フィーバスの本質は「貫く強さ」そのものだし、フロローの本質は「自由な心」そのものでした。
それに気づき、宿命に抗い、運命を自らの手で切り開いた人物は、自分という魂を輝かせて生きることができたのです。
しかし、自分の本質を最後まで受け入れず、自分との距離を最後まで受け入れることができなかった人物は、悲劇の中を生きることになるのです。
存在を輝かせて生きるとは、肉体の生死に依存しません
むしろ、精神の自由さの問題なのです。
自分が自分として生きられないのなら死んでいるのと同じ
そんなメッセージを、この作品は僕に届けてくれました。
そして、人が異性に惹かれる時、そこに見ているのは自分が持っていないもの(魂の片割れとしての役割)であると同時に、自分自身が忘れかけている「自分の本質」でもあるということを教えてもらえた気がします。
パートナーシップを育み、お互いを磨いていく道程とは、相手という鏡を通して「本当の自分を思い出す」プロセスなのだということが、改めて腑に落ちました。
こんなにも素晴らしい作品に、自分の家族が出演しているということが、本当に誇りです。
また本番を観に行ける日が、今から楽しみでなりません。