お前は何様だ(14)文春の慎太郎都知事
再生事業の記述も、事例が最近に近づくと筆先が鈍り脱線気味だが、「お前」を置き換えて長兄から届いた文春に特集された石原都知事による「日本堕落論」同感論に答えて回答しておきたい。慎太郎氏は長兄と年代的にも境遇的にもよく似ているところがある。その血を引く私にとっても、大いに同感するところがあるはずだが、根本的な違いがあり、「お前は何様だ」と問わざるを得ない。「日本が極めて 危ない状況」にあるとの慎太郎氏の論文の8割の主張には、残念ながら同意せざるを得ない共通項が沢山ある。米国追随型日本堕落論も全く同意!しかし、氏が日本の再軍備と核武装を明確に主張する政治家としての姿勢については、一貫した主張であり、それを言い切る所も政治家の立場としては立派と言えるものであるが、その歴史認識において、彼の主張には、大きな矛盾が発生する事を指摘して置きたい。明治以降の日本の成長は、軍備増強により、先の大戦までと、その後の平和憲法による軍備放棄に大別して考えるべきである。列強に伍して軍備拡張と韓国、中国への侵略、その結果としての広島、長崎、沖縄、北方4島の放棄は、、明確な歴史的戦争遂行への事実として存在する。一方、軍備を放棄する現行憲法以降、日本は侵略せず(出来ず),侵略された事も無い事実・・・。その時間的経過は、丁度半分づつの短いものではあるが、海外侵略的軍備を全く持たない明治以前の日本は、維新となる黒ぶね就航においても、侵略を受けずに外交戦略で切り抜ける事ができた。これまた事実である。 その後の貧しい国民の血税による軍備拡張が、結果として日本は戦争への道を選択せざるを得なくなったのではなかろうか?その後の軍部台頭によって、軍備拡張と日英同盟、日露不可侵条約など、何の役割にもならず、全て戦争への道を邁進する為の小道具となって行ったのではなかったか。慎太郎氏のいう、独自憲法制定や日米同盟が、いかに日本の堕落への道になっているかの主張は、全て是認したい。しかし、軍備拡張と核武装で果たして、日本の防衛など完璧とする事などあり得ない事も認めなければならないし、当然その軍備はいつしか戦争へのへの道具となる可能性を否定出来ない事を明確にしなければならない。現状の日本堕落論とは、全く別の論でなければならない。慎太郎氏のいう防衛軍は、勝利を前提にした侵略的武装であり、当然核武装を含むものである。もちろん日本がアメリカの核の傘にいるなどという幻想は持つべきではないし、それはむしろ大きな核のリスクの中に存在する事の意味の方が大きいはずなのだ。石原氏の再軍備と戦争の放棄という現行憲法擁護の立場の相違は、日本が核戦争への道に向かわない為に、どうリスク選択するかの違いなのである。そしてその一点においては、最大限の戦争防衛軍を認めつつ、戦争を放棄する理想憲法を掲げて、日本に核戦争をしかけられない理由として、明確にしておく外交戦略こそ大事であるとかんがえるのである。日本が唯一の被爆国であり、その事において再び日本が核の無残さに侵される可能性は最も低い事は、世界が認めるものであろう。もちろん核武装をしない日本のままであればという前提付きではあるが、、、。戦争からの完全なる隔離など残念ながら存在しない世界である事も歴史が証明している。しかし、近代史においては、戦争への放棄を謳うスイスやスエーデンにおいては、いまだ戦争の歴史から逃れている事実が、正しい歴史認識であろう。要は、歴史認識の上で、より確実に戦争へのリスクを避けるとすれば、そのリスクの少ないものを選ぶ事が、戦争に対する価値認識として存在するべきであり、間違ったナショナリズムを発展させ、間違った為政者の中で、戦争は起こる可能性が常に存在するのである。そして誰もが,より強力な武器を手にしたら使いたくなるものである。ナショナリズム意識の極めて強い自分にとっても、強い武器を有した時,その使用を当然行使したくなるだろう自戒を込めて、立派なる石原論文に和えて反論し、「お前は何様のつもりで、自ら既に戦えなくなり、かつ我が子の兵役年齢さえ過ぎさった今、その事を主張するか」と問うものである!北の脅威も,中国の脅威も十分に認めた上で、なおかつその脅威は、最大軍備を持つものの上にあり、近代の歴史はそれを証明しているから、日米同盟の危うさとの隣り合わせで考える必要がある。冷静なる可能性の判断が重要だ。リスク選択において、戦争への可能性を考えるなら、戦争の放棄宣言は完全では なくとも、選択すべき戦略であることも歴史認識の中で主張したいのだ。