父との別れ | 大切な時間

大切な時間

『普通の事を出来ることが何よりの幸せ』そう思うことが出来たのは、病気になったからかも知れません。毎日の暮らしを大切に、家族に作る食事を中心に楽しみながら更新しています。たまに我が家の猫マサヒロも登場します。

玄関先のハナミズキが満開の、
4/6(火) 4時23分に父が亡くなりました。


28日早朝に大量に吐血し、家での介護は無理だと診断され救急搬送されそのまま入院。コロナで入院すると会えないと聞いていましたが、他府県から来る家族と接触がなければ、母だけ入れる許可が出て、30日から亡くなるまでの7日間、母が側に居てくれ、寂しい思いをする事なく旅立てたと思います。

母が病室で父に会えた時、涙を流して喜んだ様子。会えなかった2日は憔悴しきって居たようですが、母の励ましにこたえ最後まで頑張った父。
父は私の祖母を見送った時、『もう楽にしてほしい』とばかり言っていた自分の母親を苦しい思いで見送ったからか、自分の最後を主治医様と書いた手紙で残してくれていました。書いていた日付が祖母が亡くなった少しあとだったので、母や私達に同じ思いをさせたくないと思って、書いてくれていたように感じます。年齢は今のだんじりさんくらいの年齢だったので、それを見て医療に携わる事になった娘たちは、親の最後の決断に苦しむと思うので、少し落ち着いたら私達も自分たちの望む最後を書いて残す事にしようと思っています。親は子を思い、またその子も子を思ってと続くのかもしれませんね。人の死を通じて勉強する事ばかりです。

父が息をひきとる数分前に母から電話があり、父の最後をLINE電話で繋いだまま、一緒に看取りました。母も1人で見送るのは心細かったのでしょう。『長い間お疲れ様でした。側にいてあげられなくてごめんね』って事だけを伝え電話を切り、だんじりさんと少し話し合ってから妹に連絡しました。妹家族には先に出発してもらい、私達は夜勤明けで戻る娘さんと、午前中だけ仕事に出掛けただんじりさんが帰るのを待って出発し、夕方には父に会うことが出来ました。葬儀の打ち合わせや説明は妹夫婦夫婦がしてくれ、私達夫婦は指示通り動くだけなので助かりました。

翌日のお通夜迄は、家で賑やかに家族だけで過ごし父も喜んでいたと思います。綺麗な顔で穏やかで眠っているようでした。マサヒロも気になるのか父の側の座布団に座り、何か確認しているようでした。私達姉妹はコロナが流行っている兵庫県から来ているため、ご近所さんは玄関外から手を合わせて貰うという寂しいお別れになりましたが、出発時間前には玄関前に沢山のご近所さんに来てくれ、見送ってもらい葬儀場に向かいました。

到着後は納棺の儀。
納棺師さんに色々教えて貰いながら、父の体を家族で拭き清めました。冷たい父に触れるのが辛かったですが、私は父が嫌がっていた点滴を打っていた腕を丁寧に清めることにしました。血縁の濃い順に進めましたが、甥っ子が声を出しながら父を拭く姿に涙が止まりませんでした。唯一の男の子の孫でとても可愛がっていたから、彼の思いは父に伝わっていると思います。身なりを整え、納棺師さんが死化粧をしてくれ棺に納め、父の思い出の品を入れて行き祭壇に移動。我が家は家族葬だったので、限られた身内だけでお通夜でした。お通夜に出席の伯父が棺に入っている父をみて、何度も父の名前を呼びながら『もうちょっと、一緒にいててくれよ』と大きな声で話しかけていました。父とは母より長い付き合いの伯父だから言えた言葉なのかも知れません。思いを素直に言葉で出来る伯父のおかげで、私の胸のつかえも軽くなった気がしました。お通夜のあとは、母と妹と3人で斎場に泊まり他の家族は自宅に戻りました。夜は父の話をしながら家族4人だけで過ごし朝を迎えました。

翌日は家族や親族が集まり葬儀。   
葬儀に出席出来なかった娘ちゃんや親戚等の弔電やメッセージが読み上げられ、最後のお別れをして私は遺影を持ち火葬場に移動。本当に最後のお別れです。棺が見えなくなるまで瞬きすることなく見送りました。喪主の母がスイッチを押せず、抑えきれない感情の声を出しながら押す場面は苦しくて見てられませんでした。一度斎場に戻り食事と身支度を整え再度火葬場へ。父が出てきた姿を見て、きちんと骨が残ってくれていた事に安堵しました。緊急搬送される前日までリハビリし、歩いていたからおかげかも知れません。娘さんは私と同じ思いだったのか、『おじいちゃんがしっかり残ってて良かったね』と母に話していました。

骨上げをしてお寺さんに移動し供養して貰い、そのままお墓に納骨しました。納骨したこの日はお釈迦様のお誕生日らしく、花祭りの由来を話してくれました。『桜が綺麗に咲いたあと、お父さんが亡くなった事を思い出してあげてください』とお坊さんが話してくれ、聞いていた親族は毎年桜の季節に父を思い出してくれると思います。
 
葬儀日に初七日までを済ませ、妹達もみんな帰って行きました。一気に帰ると寂しくなるので、私達と娘さんは残ることにしました。父が亡くなった時、すぐ行ってあげるべきか、なるべく長くいてあげるべきかを考え、私ならみんな居なくなったら寂しくなると思うから残る事にした我が家。だんじりさんは金曜日は在宅ワークにしてくれ、和歌山でお仕事をしてくれていました。娘さんは翌日夜勤なので、金曜日のお昼に帰りましたが、居る間『大丈夫?』と何度と背中をさすり私を気遣ってくれていました。彼女らしい支え方で皆にも接してくれていたので、私は父と母だけの事を考えられたのだと思います。
娘さんを駅まで送り、その後は母を連れ平日しか出来ない手続きに回りました。する事があり過ぎて、まだまだ終わらないので西宮に持って帰り、出来る範囲で手続きするつもりですが、自分が亡くなったあと母が困ると思ったのか、万が一の場合と書いたメモが出てきました。4ヶ月以内に年金の手続きと企業年金の手続きをするようにと詳しく書いてあり、父らしいなぁと思いながら目を通しました。私が10年前の入院時に家族に残した年表も、万が一の時はと書いてある所も、性格は父譲なのかもしれません。

葬儀に出席出来ていなかった娘ちゃんが、病院の許可をなんとか貰い帰って来ました。葬儀には出席出来ませんでしたが、読み上げられた彼女の孫らしいメッセージはきっと父に届いているはず。遺影の前で手を合わせ『遅くなってごめんね、会いにきたよ』と言う娘ちゃんの言葉に、止まっていた涙がまた溢れました。

満中陰までは、あの世とこの世の間にいると言われている時期だから、話しかけたらいるような気がするから不思議です。昨晩は初めて母とまともなものを作って食べました。父が最後に食べたいと言ったカンパチのお刺身を、やっと昨晩食べさせてあげられました。私達も同じものを食べました。


明日からの母はひとり。
自分の分だけだと作る気力も出ないと思い、作り置きを何品か作っておきましたが、姉妹同じことを考えるんですね。妹も昨晩何品か作って宅急便で送った様子。介護疲れで細くなって母の体を、1.2年かけて戻せるように私達娘で協力し合う事にします。

父の死を通して色んな事を学びました。
最後までお世話になった医師や看護師さんや、医療関係者の皆さんの支えが必要な事。ご近所さんや伯父伯母や従姉妹の支え、父のお友達やコロナで葬儀に参列出来なかった親族含め、沢山の方に思われていた気持ちも感じる事が出来、父も母も私達も幸せな気持ちになりました。それに葬儀屋さんや納棺師と言う仕事の素晴らしさも初めて知りました。色んな人に支えられ父を見送る事が出来、今日のお天気のような晴れ晴れした気持ちです。

最後の父のお別れには立ち会えませんでしたが、私の出来る事はしたと思うので、父に対して後悔も残っていません。これからは母が寂しい思いをしないように支え、親より先に逝くことなく、自分の身体を労ろうと思います。

15時頃、久しぶりの西宮に帰って来ました。帰りにだんじり母の顔も見に行き元気そうだし、義父も施設で元気にしているようなのでひと安心。明日からはまた、元気にいつもの生活を楽しみたいと思います。


ブログ更新がなく沢山の方が心配をしてくださっていた様子。全ての方にお返事出来ていませんが、このブログをもって返信させていただいた事にさせて下さい。



ありす



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