去る日曜日、叔母の法要があり、菩提寺まで出掛けた途中の事。

 春陽気の晴れた日の道すがら、ちょっと素敵なタイミングでQuark1号(娘)が風景を切り取ってくれました😊!

 

 元素は、残念ながら運転手なので、チラ見だけ。

後部席の車窓からの画なので、ちょっと画角に車両の内装か写り込む問題ありですが、天気が良かったのでそれを差し引いても、良く撮れていました。

 

 それは丁度、鉄道と道路が並行して直線が長く続く場所で、気動車((ディーゼル客車)が、加速して元素の車を追い抜いて行く所でした。

 

 当然、気が付がいた瞬間のQuark1号のスマホ撮影。ナイス😀です!

 

 菜の花と気動車のコラボ。

 

 

 今、この線は、沿線の満開桜と、線路肩の黄色い菜の花が、素敵なコントラストを演出しています。

 

 当然、この時期、この様な景色を撮影するため、この沿線には、撮り鉄やカメラマニアが撮影の為に沢山訪れます。

 

 この線でも、特別列車も走らせているとの事。

確かに、この列車も沢山の方が立って乗車するほど、混んでいました。

 

 春休み最後の日曜日、晴れた中での春を満喫できたのではないでしょうか。

 

そんな法事への道すがら、春の景色を味わうことが出来ました。

一昨日は、午後から雨の予報で、確かに、お昼過ぎからは、小雨が降り始めました。

 

 痛めていた膝からふくらはぎの痛みも、だいぶ良くなって来たので、午前中は、久しぶりにリハビリのためテニスに参加。

 ここ、1ヶ月あまり、運動らしいことは、殆どしていませんでしたから、久しぶりに少しだけ汗をかきました。

 

 曇り空でしたが、、爽やかな陽気で風もさほど無くそよ風程度で気持ち良く、無理せず少しだけ運動が出来ました。

 

 帰路の途中で、近隣の商業施設に立ち寄り、今週末の法事の準備をしましたが、その際、道すがらで桜🌸並木を発見!

 

 長年この地区に住んでいましたが、そこに桜並木がある事は、知りませんでした。

 いまは、少し離れた所に住んでいますが、近くには、桜の木がありません。

 

そう言えば、Quark達がまだ小さくて、この地区の奥地がまだ雑木林だった頃、大きな桜の木が数本並んでいて、春になると一斉に開花して、その景色を眺めるのが、好きでしたね。

 

 この桜は、今年初めての花見でした。

もう、7分咲きかな?良く咲いています。

 

さぁ、今週の週末は、満開でしょうか?

 

 

 

 東日本大震災から、15年。

今年、一つの節目の年なのかもしれません。

 

 いろいろな震災時の真実や、津波等の被災についての伝承が続けられている事は、テレビのニュースやドキュメンタリー中で、確認する事が出来ました。

 でも、一方では年月の経過から、過去の記憶として忘れ去られる運命になってきています

 

 既に、今の小学生以下は、東日本大震災以降に誕生した子ども達です。

 その親達も事実の記憶にあるとは思いますが、感覚的にその深刻さを持ち続けている人達は、被災地以外では、どんどん少なくなっていると思います。

 

 我が家のQuark達にしても、震災当時は、小学生でした。今や社会人の中堅になりつつあります。

年月の流れは、早いものです。

 

 そして、元素にとっては、同時に父の没後15年でもあります。

 大地震発生日の翌々日は、父親の納骨日でした。

 

 震災当日は、退勤後に父親の遺骨を引き取りに車で実家に戻り、支度を整えて翌々日に母親を乗せて菩提寺に行く予定でした。

 

 でも、都内でも電車は止まり、その日の帰宅を諦めてに会社に泊まり、翌日昼に帰宅して、直ぐに実家に車で向かいました。

 母は、1人暮らし、実家の地震の影響も心配でした。

 

 この時期、地図を見ながら一般道を進みましたが、道路は、至る所で破損•路肩の崩れや隆起し、橋の道路との接合部は、完全な段差になっている状況。

 途中からは、信号も停電で点灯していない道路を、何とか実家に戻りました。

 その日の夕方、福島第一原子力発電所での1号機の水素爆発が発生しました。

 

 そして、子供の頃から教えられていた、原子力発電所は、絶対に安全だとの神話が完全に崩壊したのです。

 

 このあと福島第一原発は、3号機、4号機と爆発が続きます。

 その中で、本当に実家のある地区は、放射線被爆に対して安全なのか?との疑問を感じていました。

 納骨後のこの時期に、母を1人実家に戻して良いものなのか?そんな気持ちでした。

 

 過去に、核燃料処理工場での臨界事故が発生して、

地元の十字路から、25キロメートル圏内通行止めの場所に指定されたことがあります。

 この時ですら、その25キロメートル圏内でも避難指示は、ありませんでした。外出は、控えるよう指示かありましたが、内部の往来も出来ました。

 

 当然今回、実家は、避難指示区域ではありませんでしたが、その放射線の影響が無いとは、言えなかったのです。

 

 後に、土壌汚染除去の区域は、想定をはるかに超えて、山脈を2つ越えた猪苗代•磐梯地区まで、行われていました。(当時の風の向きもあったと思いますが…土壌汚染への影響があったのでしょうか?)

 

 そんな疑問の中、父親の四十九日と納骨を済ませ数日後に母を実家に送って行った事を今も思い出されます。

 父は、同年1/25に亡くなりましたので、原発の事故は、知りません。ただ、母親に聞いた事によると、昔の勤め先では原発の部品も作っていたとの事でした。

 ある意味では、事故を知らずに他界したことは、幸せだったのかもしれません。

 

 そんな事を改めて考えながら、地震によって発生した津波で原発に何が起きていたのか、断片的な話では無く、事故の流れを知りたいと感じていたのです。

 

 そのような折、ある記事でこの本の存在を知って購入ようとしたのでした。

 今や書店は、本を読む人と数と共に、減っています。なかなか見つかりませんでしたが、やっと大型書店で探し出しました。

 

 福島第一原発事故の「真実」です。

 

 

この本は、「ドキュメン編」と「検証編」に別れています。

 

 沢山の人々が、津波と言う自然災害に起因した、原発事故の電源喪失の中で、原発を維持コントロールする為に、どの様に活動や行動したのか、そして水素爆発、放射線の放出の発生、その時の判断や実態、後日の原子炉の検証結果を踏まえNHKの取材の目から、記載された物です。

 

 でも、これが全て真実なのか?別な見方もあるはずです。

 あくまで、福島第一原発における現象を踏まえて現場で起きた事象と行動を、後から報道者の視線で確認して編集を行った原発事実の結果報告だと思います。

 

 この本は、2021年に発刊された書籍を再編した物で、2024年に文庫本として発刊しています。

 

 約10数年の月日を経て明らかになったもの、当時は、把握出来ていなかったことも含めて纏めています。でも、まだこれが結論ではないと思います。

 

 まだ、ドキュメント編しなか、読み終えておりませんが、その当時の情報と設備能力、情報伝達の途絶の中で、関係者には激しい苦悩があった事実をも、少し理解出来ました。

 

 未だ、核燃料は、4号機以外は、取り出されておりません。更にその原子炉の実態すら充分に把握されているとは、言い難いのです。まだまだ、廃炉には、長い月日ご係ると思います。

 

 いろいろな教訓も与えてくれます。

 機会があれば、読んてみては如何でしょうか?

 先日、実家に帰って室内の不要物の処分をしていた時の事。

 

 母親から、金属製品で不要な物を処分して貰ったいとの要望がありました。

 

 理由は、これらの廃棄や処分にあたって、遠方のごみ集積所まで持って行く、または金属屑業者への持ち込みが必要ですが、高齢の母にとっては、その作業自体が非常な負担となります。

 

 長年蓄積した室内には金属製品で、意外に不要な物があります。

まずは、金属屑で売れそうな金属花瓶などを抽出し、自宅へ持ち帰って処分します。

 

 これに合わせて、昔自分達が購入したまま、実家に置き去りにしていた雑誌類や、もう絶対に読むことの無い父親が買った当時の経済、産業関連の書籍。これらをまず、処分する事にしました。

 これらは、元素の自宅のある市では、毎週紙類の回収資源として、市が回収してくれます。

新聞紙なら、新聞販売店が回収してくれますが、その他の紙類の回収も、遠い集積所に指定された日にしか持ち込めないとのこと。

 

 徐々にですが、母も終活を進めています。

 当然、我々が購入したまま保管(保存)されている物も、同時に処分すべきです。

ですから、代行して処分を進める事にしました!

 

 確かに、家の中を改めて見てみると不要な物は…沢山あります。

 

 そして廃棄に選別した雑誌類のなかに、添付した懐かしい物がありました。

 

 マークシートのデータカードです。

この形は、懐かしいです!

 

 多分、若い方は、このカードをみてもその存在と目的は知らないと思います。

 

 マークシート自体は、いろいろな試験等で使用した事があるかもしれませんが、それは、もっと大きなA4サイズですよね。

 BまたはHBの鉛筆で塗りつぶすこと! なんて記載されていました。

 

 このシート自体は、同様のマークシートなのですが、気になったのは『この角が切れているカードの姿』。

 これは、「パンチカード」と呼ばれる物なのです。

 

 元素が新入社員として入社した頃には、大型コンピューターを動かすプログラムやデータを入力する為に使用された60カラム(桁)の穴が空いたパンチカードが使用されていました。

この穴の開き方で英数字の情報をコンピューターに読み込ませる作業の為に使用していました。

 一件のデータは、全て60カラム(桁)のデータで穴が開けられています。

つまり、1データは、60桁の制約がありました。

 

 またこのデータを読み込ませる為のプログラムや計算させる等も、1行のプログラムが1枚のカードに打ち込まれ、これを何百枚も時には何千枚も連続して読み込ませてプログラム起動させて、コンピュータの計算処理をしていたのです。

 当然、データも同様です。さすがに、その頃にはデータは殆ど各々の端末から入力でしたが、修正データだとか、追加データなどは、カードで入力することもありました。

 

 その為に、このパンチカードに穴を開ける作業をする職場(部署)が存在しました。

「パンチ室」なんて呼ばれていましたね。

 

 今では、キーボードで入力するようなデータが、制約のあるカードデータ単位で取り込まれ、計算されて、結果を出力データとしていました。

 

 既にパソコンもありましたが、まだ、その能力は低く、安定して多量のデータを処理するとか、複雑な繰り返し演算などは、大型コンピューターが行っていました。

 

 因みに、この写真のマークシートのカードは、1987年の雑誌に添付されていた物です。

 

 当時の大型コンピュータの処理能力は、比較すると今の携帯よりも圧倒的に低いです。

一つの処理に何時間も掛かって、結果が出る。

でも、その1枚のカードが無ければ、または並べ間違えば、システムが動かない。

 データもその1枚を誤ると、合計が合わなかったり、結果が出なかったしていました。

 

 元素も、よく元になる伝票の記入を誤って、パンチカードを修正して貰った事を思い出します。

そんな重要な役割を持っていました。

 

 今は、見る事は無いパンチカードの形をした、このマークシート。

懐かしさとともに、データが溢れる現在の凄さを改めて認識しました。

 

 このブログも、その時代では考えられない仕掛けてすよね。

手書きの時代から、データの時代へ。そして、情報集積の時代へ。

 

そのうち、パンチカードなども、情報の生産遺構になっていくのでしょうか?

 彼とは、毎年の年賀状交換はしていましたが、会う機会が無く、時が過ぎていました。

 

 一時期は、彼の遠方への転勤であったり、元素の転勤や転職やらで、なかなか会えない内に時は過ぎ、その間に彼は、大病を患ってしまい、闘病で入退院を繰り返す状況に…。


 その後、リタイアして静養しても、なかなか改善が見られ無い状況との事は、年賀状で知っていました。そんな中でお互いに、会う機会を逸してしまいました。


 それが、約1ヶ月前に突然、彼から「会おう!」とのお誘いのLINEが、入りました。


 彼とのLINE交換は、元素が3年前にリタイアした時に、赴任先から地元に戻ったことを連絡しただけ。

 後は、繋がっていないLINEでした。


 本当に、会えるのなら、折角なので、同じクラスだった、2年前に再会したもう1人の友人を加えて、3人で会うことにしました。

 皆の都合を合わせて、集合しやすい場所に設定。

そして先週の夜、静かな雰囲気の場所での飲み会を開催しました。


 今の彼は、アルコールも問題無いとの事だったので、夜の会食に設定して、予約しました。


 久しぶりに会う彼は、正直に言うと、記憶にある彼とは、だいぶ容姿が変わっていました。だいぶふくよかになっていた。


 大病の後なので、痩せているかと思っていたのですが、逆でした。


 そして、突然のお誘いが意味するところがその時分かりました。

 彼の口から、今までの病状の経緯について、更に現在の対策や状況まで、説明してくれました。

そして、もうこれ以上の改善に向けた治療はしないと、本人が決断したから。


 つまり、現状よりの病状の改善が望めないと判断したからこそ、今まで会えなかった友人に会おうとしている事。


 それは、元素ばかりでは無く、同じクラスだった友人達にも、それぞれ機会を作って会いに行っていることも話してくれました。


 この大病は、彼の会社生活にも相当影響があったようです。検査の為に病院に行くと、突然のそのまま入院とか、急な発熱🥵で身体が動かないとか。


 安定しない病状は、彼を相当疲弊させていたようです。


 そして治療のため、何回も手術や施術を繰り返したり、投薬による抑止をしたり。でも、現在、内蔵機能の一部が壊死してしまい、元には戻らない事実を突きつけられてしまった様です。


 そのままの自分を受け入れる決断したようです。


 勿論、本人は、言いませんでしたが、今後も症状が悪化する可能性は有るようです。だから、体調の安定している時期に、今まで会えなかった友人達と積極的に会っているのだと感じました。


 この会食の最後にもう1人の友と提案をしました。クラスのメンバーが、各々に現在も繋がりが有るクラスの友人連絡して、集まる事が出来ないか?


 つまり、クラス会の開催です。

 皆、シニア世代。今後は、なかなか集まる事が難しい年齢になって行きます。しがらみも無い世代になったからこそ集まってみる。

 これまで、クラス会などやった事はありませんが、今だからこそ連絡を取ってみる事を試してみたいと、強く感じました。


 30〜40年ぶりに会った友人を通して、自分の体調の管理、維持の重要性を再認識しました。

そんな旧友と共通のひとときを過ごせたこと、これも何かの縁だと感じました。