日本語ユダヤ起源説⑩大化の改新はイスラエル神道の復活が目的 | MATTのブログ ~ 政治・経済・国際ニュース評論、古代史、言語史など ~

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元新聞記者。 アメリカと日本を中心にニュース分析などを執筆します。

乙巳の変
 

仏教は古墳時代の552年、欽明天皇の在位中に日本に入ってきた。受け入れるかどうかで臣下の意見は分かれたが、天皇は仏教信仰を許可し、仏教は次第に広まり、大きな勢力となっていった。その一方で、日本人の真のルーツは忘れられるようになり、神道は次第に押しやられるようになっていった。


ところが、次々と日本に災難が降りかかり、多くの人命が失われた。当時、中央には二つの大きな政治勢力、二大氏族があり、一つは仏教推進派の蘇我氏で、もう一つは仏教受け入れに反対した物部氏であった。祭司一族であった中臣氏も物部氏とともに仏教に反対した。物部氏らは「外国の宗教を受け入れると、日本古来の神道の神々の怒りを買い、国全体に災難がふりかかる」と仏教の拒否を天皇に懇願した。


中央政界では次第に蘇我氏の勢力が大きくなり、蘇我入鹿が政治を専横するようになった。これを阻止しようと、643年、中臣鎌子(藤原鎌足)らが決起し、蘇我入鹿を斬り、蘇我氏の野望に終止符を打った(乙巳の変)。そして中臣鎌子を中心として大化の改新と呼ばれる大改革が断行された。中臣鎌子は仏教を推進した蘇我氏に対立した神道の祭司長。大化の改新の主要な目的は、神道を日本の国家宗教の座に回復させることにあったのではないだろうか。
 

 

 

藤原鎌足 蘇我入鹿

 

      藤原鎌足            蘇我入鹿


しかも、大化の改新で制定された新しい法律の多くは、古代イスラエルの伝統にきわめてよく則っていた。大化の時代は71日に始まったが、7月1日はユダヤ歴では新年にあたる。大化の新政府は714日に神道の神々に捧げる捧げ物を集めたと日本書紀に記されているが、聖書によると、ユダヤ歴714日の夕方から「仮庵の祭」が始まり、神殿で捧げ物が捧げられる。


大化の土地分配は戸籍に基づき家族の人数に応じて行われた。一方、聖書にも「人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの土地を与えよ」と書かれている。


大化の改新の詔(みことのり)は「死者のために生きている者が断髪したり腿を刺したりしてしのびこと(死者の徳行功績をほめること)を述べたりする旧俗はことごとくやめよ」と命じている。同様に聖書でも、親族が死んだとき、「頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」とされている。


大化の改新の詔は「不当に自分の身に取り入れたものは倍にして徴収せよ」と述べており、聖書も「紛失物について言い争いが生じ、一方が自分のものだと言うとき、両者の言い分は神の御もとに出され、神が有罪とした者が二倍の償いをせねばならない」と言っている。ほかにも類似点は多くある。


この問題を長く研究してきたヨセフ・アイデルバーグ氏は「これらの新法をつくった神道指導者たちは、実はヘブライ文字で書かれた聖書を持っていたのではないか。大化の改新とは、実は古代イスラエルの神道をルーツに持つ日本の神道を復活させる動きではなかったのか」と推測する。


日本は9世紀中頃に至るまで、中国文化と仏教の受容にほとんど耽溺していた。しかし次第に中国文化から独立し、固有の文化を持って発展させようとする動きが起こってきた。その結果、894年には遣唐使が廃止され、9世紀末までには日本固有の片仮名と平仮名がつくられた。本連載の2回目で述べたように、日本の片仮名と平仮名はヘブライ文字に酷似している。あまりにヘブライ文字に似ているため、単に漢字を崩してつくったとは考えにくい。当時の日本人の教養階級にヘブライ語の知識があり、ヘブライ文字と漢字の両方を参考にしてつくったのが片仮名と平仮名だったのではなかろうか。


日本では、対立や摩擦を繰り返しながらも、神道と仏教とが共存してきた。その対立の大元は、古代イスラエルの神道にルーツを持つ日本の伝統と、仏教を含む中国文化の影響との間の葛藤であったとは考えられないだろうか。ただし、伝統のルーツがイスラエルにあることは年月とともに忘れ去られ、あるいは故意に隠されてきた。