愛の入口、味覚の母 | 果樹園の草むしりおじさんpart2

果樹園の草むしりおじさんpart2

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グルメの時代に水を注すつもりなどありませんが、歳をとると新しいものよりも、味覚の根源に居た母の恵みを追い求める私です。

例えば漬け物や味噌汁というありふれた日常生活の献立にありつければ、いつの間にか亡き母の味を基準に良くできたとかイマイチとか判断している自分に気がつきます。

一流の料理屋で扱う本枯節の一番出しをふんだんに使った汁椀よりも欲しくてたまらないのが母の味なのです。

母の作ってくれた料理は決して一流ではありません。

貧乏な時代でしたから、食材も安物ばかりで拘りの余地などありませんでした。

朝早く起き、冷たい井戸水で米を研ぎ、竈に薪をくべて釜を炊く。

シュッコシュッコと鰹を削り、トントントンと野菜を刻むまな板の音。

寝床の僕は起きたくない。
でもいい臭い。

「果樹園!起きなさい!早く納豆を溶きなさい!ハツ子(飼い鷄の愛称)の菜っ葉に浅利の貝殻を潰して入れなさい。それから卵を貰いなさい」

と優しくせかす母の声。

ついにはいい臭いと母の優しい声にほだされて寝床の楽園を飛び出して始まる一日。

この思い出の全てが味覚となって、年老いた今でも無性に懐かしく追い求めるのであろう。

味覚は愛の賜物である。

愛という形の無い、知覚の対象とはなり得ないエネルギ―の伝達手段としての味とそれを味わう味覚とは、実は物質に労力と費用と心情を投入し、心地よく摂取できるまでに物質を高次元化して提供することで、相手に作られる受け皿であった。

人一人の味覚ができるまでに、こんなにも大変な無償の投入があったのだと私は思う。

愛の始まりは受ける者の口を仲介にしている。

口は愛の入口なのだ。