私はなぜ演劇の道に進んだのだろう。
とよく考えます。
勿論、
なんとなく興味があって惹かれ、
やってみたらたまらなく面白くて物凄く好きになったから、
だから20年もの間、まるで竜宮城の浦島太郎のように、
世間の移り変わりや年月の経過にも気づかず、
ひたすら稽古を重ね公演を重ねて来た訳です。
なぜか惹かれ、やってみたら他の何よりも好きになった。
・・・・・
アメリカ経由のメソッドを学び、
ロシア人の師から本格的なスタニスラフスキー・システムを学び、
毎週毎週公演を繰り返し、舞台に上がり続け、
そんな過程で、色々本質的なことを学びました。
俳優として演技をしようとすれば、多くの人が陥る本質的な間違いに、
「感情を演じる。」
というのがあります。
「感情を表現する。」
とも同意です。
俳優が感情を表現してはいけないと言うと、多くの人は意外に思うかもしれません。
「え?役者って感情を表現するものでしょう?」
感情は表現するのではなく、結果的に生まれるとき、「真実」になります。
私たちの世界ではこれを、
「感情を演じるのでなく、行動する」
と言います。
人間は現実の生活においていつも、
今この瞬間自分の置かれている状況から、自分にとって、より好ましいと感じる状況への移行を求めて、無意識の「目的」を設定します。
そして、その目的を手に入れようと行動を選択し実行しています。
私たちの人生は常にこの連続です。
だから、役が、無意識に設定している「目的」を、俳優は意識的に理解し、
それを手に入れようとして選択した「行動」を、
舞台上で、「本当に」行う事が必要です。
その結果、あるいはその過程で、「感情」は自然に生まれます。
ですから、俳優が、結果としての「感情」を表現するというのは非常に不自然でリアリティーに欠ける、
所謂、「お芝居臭い演技」を生むことになります。
行動する、とは、舞台上で、すべての瞬間、その「過程」に集中するということでもあります。
過程のすべての瞬間を、目的とする状況の獲得に向けて、真剣勝負で「生きる」ことだといえます。
稽古や本番で、この「過程に集中し、過程を生きる」挑戦を繰り返しながら、私はこんなことに気づきました。
「私は今まで、世の中には、正しいことと正しくないことが有ると思って生きて来たんだな・・・だけど本当は、この世の中には正しいも間違いもないんだな。」
私は、それまで、私たちの外側にあらかじめ「正しい答え」と、「誤った答え」があり、正しい答えを選択しなければならないのだ。
と思っていたのです。
皆さんご存知でしたか?
私は、恥ずかしながら、知らなかった。。。
私たちの世界は、結果を求められる社会です。
学校の教育では、正誤 という概念を基準に判断を繰り返すことが刷り込まれます。
だから、多くの人は私と同じような勘違いをしているのじゃないかな、と私は思うのですが、どうでしょうか。
本当は、この世界に正誤はない。
ただ、
もしも求めるなら、今この状況下で、自分にとって、より適切と思われる行動を見つけ、選択することができる。
というのが、われわれ人間にとっての、この世界の真実なのだと思います。
「正誤」という「結果」はどこにもなく
ただつねに現状に対して、比較的適切な行動、か、比較的適切でない行動か、を選択し、実行するという、過程がある。
そんなことを思うようになりました。
もっと早く、子供のころにこのことに気づけていたら、と思いますが、まあ思ってみても仕方がありませんね。
そして、
正誤の幻想は、
「自分は正しく、他が間違っている。」
「自分は正義で、他が悪だ。」
という思い込みを生み出すように思います。
そしてこの思い込みは、人の間に「分離」を生み出します。
これは、人間社会の一つの不幸だと、私は思います。
そういえば、
私が、映画や演劇に惹かれたのは
この「分離」ということにも、とてもとても関係がありました。
私は子供のころ、周囲との人間関係に苦しむことが有りました。
誰だって、多少のいじめにあったり、疎外感を感じる経験を持ったことが有るだろうと思いますが私もそんな経験をしていました。
自分が、他から分離しているという感覚をしばしば味わい、寂しさ、孤独、劣等感を抱いていました。
そしてそんな時、演劇や映画の中の人物の葛藤に、
「ああ、自分だけじゃないんだ、自分が、『間違った人間」じゃないんだ」
と感じることがあったと記憶しています。
私が演劇に惹かれたのは、実は、演劇によって分離感や疎外感から解放さた経験の為だったのかもしれません。
また、同じような苦しみを感じている人を、演技の力で助けてあげられる、助けてあげたい。
そんな風に、無意識に思っていた気がします。
人は皆それぞれに個性的で、ユニークであって良い。と、よく言われるようになった気がしますが、
私の中には、まだ、他人と自分の違いを「正誤」や「正邪」 で判断してしまう無意識の癖があります。
そして周りを見渡せば、まだまだ、世界はそんな判断であふれているように思います。
しかし、本当に、世界中の人間の考え方から、この二元的な分離の思考が消えて、互いの違いを尊重できるようになったら、
そして、分離対立するのでなくて、違いを恐れず尊重し、どちらか一方でなく、どちらにも良い未来を選択しようと出来るようになったら、それは素敵な、幸せな世界だな。
と思うのです。
そんな世界に生きられたらいいな、と心からそう思うのです。
渡部
とよく考えます。
勿論、
なんとなく興味があって惹かれ、
やってみたらたまらなく面白くて物凄く好きになったから、
だから20年もの間、まるで竜宮城の浦島太郎のように、
世間の移り変わりや年月の経過にも気づかず、
ひたすら稽古を重ね公演を重ねて来た訳です。
なぜか惹かれ、やってみたら他の何よりも好きになった。
・・・・・
アメリカ経由のメソッドを学び、
ロシア人の師から本格的なスタニスラフスキー・システムを学び、
毎週毎週公演を繰り返し、舞台に上がり続け、
そんな過程で、色々本質的なことを学びました。
俳優として演技をしようとすれば、多くの人が陥る本質的な間違いに、
「感情を演じる。」
というのがあります。
「感情を表現する。」
とも同意です。
俳優が感情を表現してはいけないと言うと、多くの人は意外に思うかもしれません。
「え?役者って感情を表現するものでしょう?」
感情は表現するのではなく、結果的に生まれるとき、「真実」になります。
私たちの世界ではこれを、
「感情を演じるのでなく、行動する」
と言います。
人間は現実の生活においていつも、
今この瞬間自分の置かれている状況から、自分にとって、より好ましいと感じる状況への移行を求めて、無意識の「目的」を設定します。
そして、その目的を手に入れようと行動を選択し実行しています。
私たちの人生は常にこの連続です。
だから、役が、無意識に設定している「目的」を、俳優は意識的に理解し、
それを手に入れようとして選択した「行動」を、
舞台上で、「本当に」行う事が必要です。
その結果、あるいはその過程で、「感情」は自然に生まれます。
ですから、俳優が、結果としての「感情」を表現するというのは非常に不自然でリアリティーに欠ける、
所謂、「お芝居臭い演技」を生むことになります。
行動する、とは、舞台上で、すべての瞬間、その「過程」に集中するということでもあります。
過程のすべての瞬間を、目的とする状況の獲得に向けて、真剣勝負で「生きる」ことだといえます。
稽古や本番で、この「過程に集中し、過程を生きる」挑戦を繰り返しながら、私はこんなことに気づきました。
「私は今まで、世の中には、正しいことと正しくないことが有ると思って生きて来たんだな・・・だけど本当は、この世の中には正しいも間違いもないんだな。」
私は、それまで、私たちの外側にあらかじめ「正しい答え」と、「誤った答え」があり、正しい答えを選択しなければならないのだ。
と思っていたのです。
皆さんご存知でしたか?
私は、恥ずかしながら、知らなかった。。。
私たちの世界は、結果を求められる社会です。
学校の教育では、正誤 という概念を基準に判断を繰り返すことが刷り込まれます。
だから、多くの人は私と同じような勘違いをしているのじゃないかな、と私は思うのですが、どうでしょうか。
本当は、この世界に正誤はない。
ただ、
もしも求めるなら、今この状況下で、自分にとって、より適切と思われる行動を見つけ、選択することができる。
というのが、われわれ人間にとっての、この世界の真実なのだと思います。
「正誤」という「結果」はどこにもなく
ただつねに現状に対して、比較的適切な行動、か、比較的適切でない行動か、を選択し、実行するという、過程がある。
そんなことを思うようになりました。
もっと早く、子供のころにこのことに気づけていたら、と思いますが、まあ思ってみても仕方がありませんね。
そして、
正誤の幻想は、
「自分は正しく、他が間違っている。」
「自分は正義で、他が悪だ。」
という思い込みを生み出すように思います。
そしてこの思い込みは、人の間に「分離」を生み出します。
これは、人間社会の一つの不幸だと、私は思います。
そういえば、
私が、映画や演劇に惹かれたのは
この「分離」ということにも、とてもとても関係がありました。
私は子供のころ、周囲との人間関係に苦しむことが有りました。
誰だって、多少のいじめにあったり、疎外感を感じる経験を持ったことが有るだろうと思いますが私もそんな経験をしていました。
自分が、他から分離しているという感覚をしばしば味わい、寂しさ、孤独、劣等感を抱いていました。
そしてそんな時、演劇や映画の中の人物の葛藤に、
「ああ、自分だけじゃないんだ、自分が、『間違った人間」じゃないんだ」
と感じることがあったと記憶しています。
私が演劇に惹かれたのは、実は、演劇によって分離感や疎外感から解放さた経験の為だったのかもしれません。
また、同じような苦しみを感じている人を、演技の力で助けてあげられる、助けてあげたい。
そんな風に、無意識に思っていた気がします。
人は皆それぞれに個性的で、ユニークであって良い。と、よく言われるようになった気がしますが、
私の中には、まだ、他人と自分の違いを「正誤」や「正邪」 で判断してしまう無意識の癖があります。
そして周りを見渡せば、まだまだ、世界はそんな判断であふれているように思います。
しかし、本当に、世界中の人間の考え方から、この二元的な分離の思考が消えて、互いの違いを尊重できるようになったら、
そして、分離対立するのでなくて、違いを恐れず尊重し、どちらか一方でなく、どちらにも良い未来を選択しようと出来るようになったら、それは素敵な、幸せな世界だな。
と思うのです。
そんな世界に生きられたらいいな、と心からそう思うのです。
渡部